戦前期、わが国の防災行政は国レベルでは 内務省警保局が消防行政と共に管轄していた。 同局内の消防係が両事務とも担当しており、 その境界線は曖昧であった。昭和二二年(一九四七)には内務省が解体され、国レベルの防災行政は、総理府の官房審議室に移った。しかし、当時、制度的にも災害関係の法律一本化はされておらず、事務も各省庁の中にバラバラに組み入れられていた。
防災行政では、近年まで被災地の市町村中心の災害対応を想定した制度設計が行われていた。東京の防災行政に関しては、都区制度(詳細は一章)との関係で、全国的にみても特殊な体制整備が行われてきた。特別区は基礎的自治体ではあるものの、今なお一部の事務や徴税権は東京都にあり、防災行政に係る事務も、東京都主導で体制整備が行われてきた(近年は、港区をはじめ各区とも、主体的に防災体制の強化を進めている)。また、東京都の防災行政は、消防機関である東京消防庁への依存度が長年高かった。都および港区の防災行政を振り返るにあたっては、そのような本地域の特殊性を考慮する必要がある。
東京都では、昭和二〇年代を通し、災害対応は、総務局、建設局がある程度行っていたとは思われるが、組織図や分掌の説明表からは明確な防災担当部局が見当たらない。そのような状況下で、カスリーン台風による風水害と、キティ台風による風水害が発生する。
昭和二二年九月に、関東以北へ豪雨をもたらしたカスリーン台風が来襲し、全国の被害は死者一一〇〇人(関東地方一都五県)、行方不明者四八八人、負傷者一八四一人、建物の損壊流出一万二七六一戸、建物の浸水四一万八〇〇四戸という甚大な被害を与えた。首都圏でも利根川が決壊し、大きな被害を与えることとなった。都内全域の被害は、死者六人、行方不明者三人、家屋の浸水一一万二九六〇棟、堤防決壊一七一か所、橋の流出三〇八か所、道路破損一九一か所、田畑冠水埋没五八二三ha、被災人員三七万八〇四二人、被害総額は約一三億五七〇〇万円に達した。また昭和二四年八月、キティ台風が首都圏を襲った。大雨となり、大規模な土砂崩れ等が生じた。東京では江東区や江戸川区等のいわゆるゼロメートル地帯のほぼ全域が浸水し、大きな被害を受けることとなった。死者一三五人、行方不明者二五人、負傷者四七九人、床上浸水五万一八九九棟、床下浸水九万二一六一棟、船舶被害二九〇七隻の甚大な被害となった。ただ港区内においては、両台風による特記すべき被害は生じなかった。
このような状況下、現在の共助体制の重要な柱となっている港区消防団が、昭和二四年一一月に結成された(港区では、消防団の重要性を認識して、昭和四六年に消防団課を設置した。平成七年〈一九九五〉に発生した阪神・淡路大震災を機にさらに共助体制の柱である消防団の重要性は高まっている。なお消防団の管理事務は、港区ではなく東京消防庁が主管している)。終戦後、消防団の前身組織にあたる警防団が一部縮小し残っていたが、防空活動(空襲により発生した火災の鎮圧)を主な任務とした警防団は、義勇消防組織よりも民間防衛組織としての色彩が強く、戦時色が強い諸団体が解散されつつある状況の中で、当時団員の士気も低下していた。そのような状況下、火災に対応するため、昭和二二年勅令一八五号をもって「消防団令」が公布、九月に港区議会の議決を経て「東京都港区消防団設置条例」が制定され、警防団も消防団に改組移行された。
勅令消防団の結成準備は、この消防団設置条例に基づいて進められ、港区の各消防署の管轄区域ごとに芝消防団(定員三〇八人)、高輪消防団(定員二〇五人)、麻布消防団(定員一七六人)、赤坂消防団(定員一一〇人)を結成し、各消防署を中心に警察署長、消防委員等の協力も得て、水火災の予防警戒および防圧、水火災の際の救護ならびにその他の非常災害等の場合における警戒および警護に従事させていた。なお、勅令消防団員は、港区消防委員会が推薦した者を港区長が任命した。そして昭和二四年、「消防組織法」に基づき、都条例および規則によって、勅令団は自然解消し、現行の港区消防団が発足した。港区では、諸般の手続きや団員の任命も完了したので、一一月二六日に芝桜川小学校において、芝(定員二二〇人)・高輪(定員一一〇人)・麻布(定員一二〇人)・赤坂(定員一〇〇人)の四消防団の結成式を挙行した。
次項では消防・消防団について、本項で述べた消防行政と重複する部分があるが、港区の災害(火災)状況なども含めてより詳しくみていくこととする。 (永田尚三)