国レベルの消防機関としては、戦前から消防行政を担ってきた内務省警保局が昭和二一年(一九四六)に消防係を消防課へと昇格させた。翌年には内務省が解体され、国レベルの消防行政は、国家消防庁に移管された。国家消防庁は、総理府の外局である国家公安委員会の下に設置された組織で、内部部局として管理局と消防研究所を持っていた。ただその後、総理府の下部組織である国家消防庁が、庁の名称を用いるのは適当ではないということで、昭和二七年に国家消防本部に改められた。そして、この組織改組によって、消防研究所は管理部門である国家消防本部の下部組織となった。
市町村レベルでは、昭和二三年の自治体(市町村)消防制度の開始と同時に施行された「消防組織法」は、公的消防組織と義勇消防組織が併存する消防体制を維持した。市町村に消防本部を設置させ、公的消防を担わせる一方、消防団が新たに義勇消防組織としての役割を担うこととなった。市町村消防制度が導入されたことにより、東京の警視庁消防部は警視庁から独立し、新たに東京消防本部となった。また大都市部の官設消防署の業務や組織資源は、各都市に新設された市消防本部が引き継いだ。
消防団に関しては、終戦を迎えると、消防組織法の制定に先立ち「消防団令」が勅令をもって公布され、昭和二二年四月から施行された。これにより、警防団は解消され、新たに消防団(勅令消防団)が組織された。さらに翌昭和二三年の消防組織法施行に伴い勅令消防団令は廃止され、政令消防団令が公布され、義務設置であった消防団が、任意設置となった。消防組織法は、消防本部、消防署、消防団の全部または一部を市町村は設けなければならないと定めている。つまりいずれかを設置すればよいので、戦前官設消防署が設置されていなかった地域においては、当初は消防本部を設置せず消防団の設置のみで間に合わせようとする市町村が多かった。そのため、全国的にみると消防本部を設置していない消防非常備市町村が多数であった。
なお消防組織法第一六条は「特別区の在する区域においては特別区が連合してその区域内における消防を十分に果たすべき責任を有する」とし、同第一七条では「前条の特別区の消防は都知事がこれを管理する」とした。これにより、前述のとおり消防組織法の施行に伴い東京消防本部が昭和二三年三月に設置されることとなった。そして東京消防本部は、同年五月に東京消防庁と改称した。これは、わが国の民主化政策を推進しているGHQが、東京都の警察本部が「東京警視庁」を名乗る一方で、特別区を管轄区域とする消防本部の名称が「東京消防本部」であるのは、戦前同様に警察が消防より上のように見えるとの懸念を示したからである。
また消防組織法が、特別区の消防のみを対象とする条項を設置したのは、東京都のみに前項で説明した都区制度があるからである。都区制度では、特別区域の消防事務は、特別区ではなく東京都が行うと定められている。一方消防組織法は、市町村消防の大原則を定めており、都道府県は消防事務を行うことができない。その結果、特別区域内の消防行政の主体が不明確になる。そのため消防組織法は、法的整合性をつけるため、特別区を総合して一の市と見なし、その実在しない市の消防本部として東京消防庁を設置している。
区内では、芝消防署・高輪消防署・麻布消防署・赤坂消防署と一〇出張所が置かれた。また消防団は、それまでの警察署の所管から消防署の所管に変わった。さらに昭和二四年、都条例六三号による特別区の消防団員の定員、任免、給与、服務等に関する規則および、都規則第六四号の特別区の消防団の設置等に関する規則により、都内に四四消防団が置かれることとなった。消防団の数は、その後昭和二六年には四八となった。区内には、芝・高輪・麻布・赤坂の四消防団が設置された。
芝消防署においては、昭和一九年に海岸通派出所が港出張所と改称し、同二八年に廃止された。芝消防署は昭和二三年消防地区隊制実施に際しては、第一消防地区隊に属し第五大隊本部となり、各出張所は消防所と改められたが、昭和二八年の機構改正によって各消防所は出張所に改められた。
高輪消防署においては、昭和二〇年に志田町出張所が設置された。昭和二三年の消防地区体制実施に伴い、高輪消防署および三光出張所、志田町出張所は麻布消防署の所属となり、消防所となった。また高浜出張所は品川消防署の所属になり高浜消防所となった。しかし昭和二六年の機構改革で、再び高輪消防所は消防署となり、三光・志田町・高浜消防所も高輪消防署の所属に戻った。
麻布消防署においては、昭和二二年に飯倉出張所が廃止になった。昭和二三年九月には、消防地区隊制の導入に伴い第一消防地区隊に属し、麻布消防署には第六大隊本部が置かれ、霞町出張所・芝消防署御田出張所・高輪消防署・志田町出張所・三光出張所がそれぞれ消防所と改称され管轄下に入った。しかし昭和二六年の制度改正により、霞町消防所以外は他の所属となった。そして昭和二八年の機構改革で、霞町出張所となった。また昭和二九年には、廃止になっていた飯倉出張所が復活し、麻布消防署の所管となった。
赤坂消防署においては、やはり昭和二三年の消防地区体制実施に伴い第一地区隊第三大隊に属し、麹町消防署赤坂消防所に、新町出張所は新町消防所に変更されたが、昭和二六年の機構改革で赤坂消防署、赤坂消防署新町出張所となった。
また水上消防署臨港出張所が、昭和一八年に開設され、芝浦にあった昭和二三年から二五年まで芝消防署に所属し、芝消防臨港出張所と称していたがその後、水上消防署の所属となった。
昭和二〇年代の港区内の火災件数の時系列的推移をグラフ化したのが、図9-1-2-1である。火災件数全体としては、増加傾向にある。特に、それを引き上げているのは小火(ぼや)の増加であることがわかる。全焼・半焼の火災は、件数も多くなく横ばい傾向であった。一方、図9-1-2-2をみると、罹災棟数は横ばい傾向で、焼失面積も昭和二三年は大きいものの、翌二四年以降は一五〇〇坪以下で横ばい傾向が続く。戦後、わが国の消防は、GHQの指導に基づき予防消防体制の強化を図る。その結果、以前のような大規模火災は減少した。港区内でも、その傾向がみて取れる。
昭和二〇年代で、港区内における焼失坪数が最大の火災は、昭和二一年四月二日に発生した西芝浦四丁目の林通信機の火災である。午前七時四六分頃出火し、午前九時一三分に鎮火された。出火原因は不明で、焼失坪数が一〇八五坪、被害見積もり六三八万六〇六四円に及んだ。また被害見積もりが最大の火災は、昭和二四年三月七日に発生した本芝下町一~三丁目の火災である。午後一〇時三一分に発生し、午前〇時二〇分に鎮火された。火災原因は不明で、四四三坪を焼き、六六三四万七二五三円の損害見積もりとなった。 (永田尚三)
図9-1-2-1 港区内の火災件数(昭和20年代)
『港区史』下巻(1960)掲載表から作成
図9-1-2-2 港区内の罹災棟数および焼失延坪数(昭和20年代)
『港区史』下巻(1960)掲載表から作成