わが国の防災行政が、本格的に始まるのは、昭和三〇年代である。昭和二七年(一九五二)三月に北海道十勝沖を震源地とする十勝沖地震が発生し、この災害を受け全国知事会では従来の防災行政を再検討するとして災害対策調査委員会を設置し、その検討事項を「非常災害対策法要綱」と「非常金融公庫法要綱」にまとめ関係各方面に配布した。
その後、防災行政に関わる目立った動きはなかったが、昭和三四年九月二六日に中部地域を襲った伊勢湾台風が、死者四六九六人、行方不明者四〇一人の甚大な人的損害と、七〇〇〇億円を超える物的損害を生じさせた。この伊勢湾台風が契機となり、昭和三六年に「災害対策基本法」が制定されることとなった。災害対策基本法は、わが国の災害対応の根幹を成す法律で、国や地方自治体、公共機関の責務や災害時の役割等を定めた法律である。また、自治省消防庁は、昭和四六年に各省庁が組織的に震災対策に取り組む発端となった大都市震災対策推進要綱を発表した。
これを契機に、国および地方自治体の防災行政体制の強化が図られ始める。戦後、国レベルの防災行政は、総理府の官房審議室が担ってきたが、昭和四九年六月に国土庁が創設されたことにより、国の防災行政は国土庁長官官房災害対策室の所管となる。定員は一四人であった。東京都も昭和四八年七月に、総務局の行政部を改組し、行政部と災害対策部に分ける。これにより、初めて都の組織に明確に防災行政担当部局が位置付けられる形となる。災害対策部の下には、企画課・調整課・応急対策課が設置された。またそれに先立ち、東京都では災害対策基本法に基づき、昭和三七年一〇月に「東京都防災会議条例」を制定し、防災会議地震部会において関東大震災級の地震に対する被害想定を算定し、住民の避難計画を策定した。さらに昭和四二年に、防災会議地震部会は東京における大震火災の予想と当面の広域避難所等についてと題する答申を行い、都内四二か所の広域避難場所および地区割り当てを行った。そして昭和四三年には「東京消防庁震災対策本部設置要綱」を制定し、同年九月に東京消防庁震災対策本部を設置した。昭和四六年には、東京都は全国に先駆けて「東京都震災予防条例」を制定した。
東京都の防災行政は、本来は消防行政を担当する組織である東京消防庁に長年依存するところが大きかったが、東京消防庁では昭和三〇年代から震災対策の体制整備を行い始めた。そもそも、昭和五年、東京消防庁の前身である警視庁消防部は、関東大震災の教訓から非常時火災警防規定を制定し、各消防署では震災時の警防計画を策定し、毎年九月一日を中心に訓練を実施するなど防災対策を戦前から行ってきた経緯がある。さらに、科学的知見の消防行政・防災行政への反映を目的に昭和三〇年に設置された火災予防対策委員会では、大震火災による被害予測等が検討された。そして、昭和三四年六月に大規模地震災害に関する事項を専門的な立場から多角的に調査研究するため、火災予防対策委員会に地震に関する学識経験者で構成された地震小委員会を設置し、同三六年七月三一日に「東京都の大震火災被害の検討」と題した報告書が作られた。そしてさらに検討が行われ、昭和四二年三月に「東京都の大震火災被害の検討(第二報)」が発表された。
昭和四六年には、前述の東京都震災予防条例の制定に伴い、震災対策を所管する防災部を設置し体制の強化を図った。そして防災部の下には、震災対策課・防災指導課・消防団課が置かれることとなった。さらに、昭和四七年には震災対策業務推進の基本となる震災対策推進計画を策定した。
このような社会的動向の中で港区では、昭和三〇年代から区の特性を踏まえた防災体制の整備を進めており、災害対策基本法の規定に基づき、昭和三八年七月、「港区防災会議条例」および「港区災害対策本部条例」を制定した。港区防災会議条例は、港区防災会議の役割について定めたものである。本会議は、各種行政機関や指定公共機関の連絡、調整のための区長の付属機関で、会長には区長が充てられ、区、警察、消防等の防災に関する行政機関および団体の職員から、区長が任命または委嘱する委員で組織された。また、港区災害対策本部条例は、区内に災害が発生した場合あるいは発生する恐れがある場合に、その対策を講じるための本部をおいて、区役所が受け持つ災害予防や災害応急対策を実施する組織を決めたものである。本部に本部長室、支隊および部を置き、支隊に支隊長を、部に部長を置き、本部長室、支隊および部に属すべき本部の職員は、区規則で決めるとしている。また、災害対策本部長は、本部の職員を指揮監督し、災害対策副本部長は本部長を補佐し、本部長に事故ある時は職務を代理する。また支隊長および部長は、本部長の命を受け、支隊または部の事務を掌理する。
さらに港区は、翌昭和三九年六月には港区の防災対策の基本となる港区地域防災計画を策定した。港区地域防災計画は、区の地域ならびに住民の生命、身体および財産を災害から保護することを目的としており、港区、東京都および関係防災機関の災害予防、災害応急対策、災害復旧等の計画を定めたものである。港区地域防災計画では、特に①古川周辺の警戒と②災害に対する全機能での対応体制の強化に力点が置かれた。港区内を流れる準用河川である古川(現在は二級河川)は、護岸はほぼ改修済であったが、工事中だった高速道路二号線の付近は予防体制を厳重にする必要があった。また当時、東京湾に臨む海岸堤防は、ほとんど完成されておらず、高潮で大きな被害が生じる危険があった。
さらに港区は、災害に対する全機能での対応体制の強化として、区内の木造建築の耐火耐震構造のものへの改築、防災訓練の実施、災害対策本部の設置、被害の程度によって第一非常配備態勢から第四非常配備態勢までの職員配置体制の整備、区長または警察官が避難勧告・避難指示を出す際のあらかじめ指定した施設への地域または町内会単位での住民誘導体制、長期の場合三万六〇〇〇人、一時の場合は約一〇万八〇〇〇人収容可能な避難所の確保、避難所への乾パン、毛布、ゴザ等の備蓄等の計画が、港区地域防災計画には記載された。
そして昭和四七年四月には、総務課に災害対策係が設置され、さらに同四九年に防災課が設置され、港区においてもより独自性を持った防災行政が展開されていくこととなる。  (永田尚三)