昭和三〇年代から四〇年代の期間における、自治体消防(市町村消防)での大きな変化は、救急が消防の事務となったことと、それに伴い全国の市町村の消防常備化率が向上し始めたことである。救急搬送業務は、それまで法の裏付けのない事実行為として、消防や病院等が行っていたが、昭和三九年に消防法が改正され、救急は消防の事務とされた。
東京消防庁においては、この時期に各種消防体制の整備が順調に進められた。昭和三〇年代に入り昭和女子大学火災等の大規模火災が発生し、火災への社会的関心が高まったことを背景に、東京消防庁は昭和三〇年五月に火災予防対策本部を設置した。さらに科学的最新の知見を火災予防に反映させるため、前項で触れたように建築学等の専門家によって構成された消防総監の諮問機関である火災予防対策委員会を発足させた。
危険物の保安対策も徐々に強化され、毎年六月二〇日が危険物安全の日と昭和三八年に定められた。また昭和四一年には、危険物施設に関わる法令等の技術基準の細部について行政指導指針を作成するため、専門家による危険物施設安全技術研究会を発足させた。
また東京消防庁は、昭和四五年一二月に消防署組織整備五か年計画を策定し、消防署組織の強化と格差是正を行った。消防署長は部長相当の職として格付けし、消防監または消防司令長をもって充てることとした。また消防出張所長も、消防司令を配置した。
この期間の、港区内の消防状況であるが、芝・高輪・麻布・赤坂の四消防署と一〇出張所の状況には変化はない。前述の消防署組織整備五か年計画で、昭和四七年に芝消防署が、同四八年に高輪消防署が、同四九年に麻布消防署・赤坂消防署が消防署長の昇格を実施した。消防団員数は、定員が決められているので大きな変化はないが、各消防署に対応する形で各一つずつ消防団が設置された点は変化がなく、定員も芝消防団が二二〇人、麻布消防団が一二〇人、赤坂消防団が一三〇人、高輪消防団が一一〇人で変化がないが、四消防団ともわずかに定員を割る形で推移している。赤坂消防団の分団数は、昭和四〇年代後半に四から三に変更になり、高輪消防団は三から四に増えた。
昭和三〇・四〇年代の港区内の火災状況は、図9-2-2-1のとおりである。火災件数は、二〇〇件前半から四〇〇件の間で推移している。昭和三〇年代後半に増加傾向をみせるが一旦減少し、また昭和四〇年代半ばに増加し、その後また減少傾向に転じている。
図9-2-2-1 港区内の火災状況(昭和30・40年代)
『東京消防庁統計書』各年版から作成
また、昭和三九年から法制化された救急の出動件数は図9-2-2-2である。さらに、昭和四九年の救急出動件数の事故別内訳は、図9-2-2-3である。昭和四一年に五四四七件だった救急出動件数は、昭和四八年に八一九一件まで増えて、昭和四九年は七六二四件とわずかに減少している。しかし、基本的には増加傾向といえる。
図9-2-2-2 港区内の救急出動件数(昭和40年代)
『東京消防庁統計書』各年版から作成
なお、図9-2-2-3をみると、急病が55%と最も多いが、交通も17%(一一九〇件)と一般負傷の18%に次いで第三位となっている。ただ、港区内での交通による救急出動件数は昭和四四年が一九四八件と最も多い。昭和三〇年代から交通戦争と呼ばれた交通事故による死亡件数が、昭和四五年をピークに全国的には減少に転じるが、ほぼそれに沿う傾向が区内でもみて取れる。
図9-2-2-3 港区内の救急出動件数の事故別内訳(昭和49年)
『東京消防庁統計書』昭和49年版から作成。1%未満の「火災」「自然災害」「水難」は省略
また、この時期の港区としての消防に関わる施策としては、区民の生命と財産の安全を確保する視点から、消防水利の整備や、消防車の乗り入れ路の確保、防火体制の強化を図るとともに、高層建築物に対する消防救護体制の確立を行った。
昭和四〇年の統計によると、特殊可燃物貯蔵取扱所は二一六か所、焚火及び喫煙禁止区域が五か所指定されている。また港区は、自衛消防力として手動力ポンプを五つ、可搬動力ポンプを二三保有し、自衛消防に従事する人員は、専任者が二五六四人、兼任者が四九六八人であった。教育行政の一環として行われている少年消防クラブは、港区内でのクラブ部員数が一〇二五人(男子七一六人・女子三〇九人)である。そして消防団員数は定員が五八〇人に対し現員数が五一七人、機材置場数が九か所、手引動力ポンプ数が一四、ホース数が一二九本、防火被覆が一〇六着となっている。 (永田尚三)