昭和二〇年代の戦後混乱期には、社会的混乱や食糧難などの経済的困窮を背景に、窃盗などの財産犯、凶悪犯が急増して刑法犯の認知件数が一六〇万件近くに達し(昭和二三~二四年)、前項で述べたような内務省解体と警察改革による自治体警察創設の一つの側面としての警察力弱体化が問題とされるようになった。
昭和二一年(一九四六)に、治安維持のための住民による自衛を目的とした警察と民間との協力団体として、警視庁の各警察署管内で地区防犯協会が結成された。この地区防犯協会は、戦時体制下での大政翼賛会の末端組織としての活動が批判された町内会などとともにGHQの命令で解散されるなどの紆余曲折を経て、最終的に特別許可を得て再結成された。港区内では、例えば昭和二三年に愛宕警察署管内で地域の有志により「防犯思想の高揚を図り、警察署と相携えて防犯活動を行ない、犯罪の予防に協力すること」(愛宕防犯協会規約)を目的として愛宕防犯協会が設立されている(『港区史』一九六〇)。その後、地区防犯協会の連合組織として東京防犯協会連合会が設立された。全国各地でも防犯協会が設立され、民間の防犯活動の中心的存在として防犯広報、防犯診断、防犯パトロール、防犯機器や施設普及などの活動を実施した。昭和三七年には全国の連合組織として全国防犯協会連合会が設立された。
一九五〇年代の朝鮮戦争による好景気、占領終了と国際社会復帰を経て日本経済は急速な復興を遂げた。これを反映して財産犯などの認知件数は年一三〇万件台に減少する一方、粗暴犯が増加し殺人が年二八〇〇件以上の高い水準で推移するなど国内の治安状況は依然課題を抱えていた。日本経済は、昭和三〇年から工業製品の輸出を中心とした高度成長期を迎え、また昭和三九年の東京オリンピック・パラリンピック開催を控えて、都心部に位置する港区の街並みは大きく変化した。東海道新幹線の開通、浜松町と羽田空港を結ぶ東京モノレールの開通、営団地下鉄日比谷線の開通など港区内を経由する公共交通機関が整備され、首都高速道路も整備された。また秩父宮ラグビー場でサッカー競技が実施されるため、港区など都心部から渋谷を経由し神奈川県および静岡県を結ぶ青山通り(国道二四六号、放射第四号線)は、代々木の国立競技場と第二会場である都立駒沢公園の接続ルートとして拡幅・整備が行われ、沿道の街並みは高層オフィスビルや共同住宅に一変した。