第二次世界大戦後の自動車保有台数、運転免許保有者数の増加などモータリゼーションの進展、また産業発展による東京への人口流入の一方で、東京都内の道路網など交通インフラは整備が不十分であり、都内各地での自動車による交通事故、渋滞などの交通問題が深刻となった。
道路交通警察については、昭和三五年制定の「道路交通法」に基づき、道路交通の安全と円滑を図り交通事故を防止するため、交通安全教育、運転免許の管理、交通安全施設の整備、交通規制、違反取締、交通事故処理などが実施された。警察署レベルでの交通警察活動については、戦前の昭和一二年に警察署ごとに交通事故防止会が交通関係業者を主体に設立されていたが、戦後は昭和三九年に港区長を会長とする港区交通安全連絡協議会が設置され、行政機関や民間団体の相互協力、連絡調整、また交通安全運動や、交通安全計画策定などを実施した(『新修港区史』一九七九)。
しかし、高度成長期の自動車事故による死傷者の増大傾向には歯止めがかからず、昭和四五年には交通事故負傷者数が一〇〇万人に迫り、これは戦争の様相になぞらえられ「交通戦争」として大きな社会問題となった。同年制定の「交通安全対策基本法」により、国などの責務とともに国や自治体における交通安全対策会議の設置、交通安全計画の作成義務などが定められた。この体制のもとで交通安全対策が本格的に実施され、交通信号機、道路標識などの交通安全施設の整備、運転免許証の更新時講習、春・秋の交通安全運動など総合的な対策がとられた。
東京都心部に位置し、国道一号や一五号など主要道路が通る港区でも「交通戦争」は深刻であった。昭和四一年一二月、港区議会は交通安全都市宣言(「区のお知らせ」昭和四一年一二月二六日号)を発出し、交通安全施設の拡充や交通安全思想の普及などによる交通事故撲滅を図った。港区による具体的な施策としては、砂利道の多い区道の舗装や防犯目的の街路灯整備、改良などが行われた。特に区内での街路灯増設・近代化については、昭和三八年からの「街路灯整備五か年計画」により町内会や商店街が設置する民有灯への区からの補助金交付、街路灯木柱の鉄柱への更新、児童遊園における水銀灯や蛍光灯照明の設置などが行われた。 (福沢真一)