昭和五〇年代~昭和末において、わが国の防災行政は体制整備が本格化してくる。国レベルの防災行政を管轄している国土庁は、昭和五二年(一九七七)四月に長官官房災害対策室を改組し、防災企画課と震災対策課を設置して、二課体制とした。さらに、昭和五七年四月には、防災業務課を設置し三課体制にした。そして翌五八年三月に出された、国土庁に「防災局」を設置すべきとする第二次臨時行政調査会の最終答申を受けて、国土庁に防災局が設置される。局内に防災調整課が新設され四課体制となった。また防災企画官四人を新設した。定員は三四人に増強された。
東京都は、引き続き災害対策部が防災行政を担当し、企画課と応急対策課の二課体制が継続する形となる。東京消防庁も、昭和四六年に設置された防災部が継続的に、災害対策を担う形となる。昭和五〇年に、震災対策課・防災指導課を防災課・水利課に改めた。
港区では、昭和四九年に防災課が設置され、防災対策係・防災住民組織担当主査ができたことで、住民組織の育成、地域防災訓練、防災用大規模井戸の設置、防災無線等により住民に密着した施策が行われるようになる。また港区では、昭和五二年度予算でも、福祉・教育に並び防災を重点的実施施策と位置付け、港区における防災行政がさらに進展していくこととなる。
防災課では、昭和五〇年頃から防災住民組織の組織化を進めた。防災住民組織は隣近所の住民で話し合い自主的に作るものである。当時の広報は、町会・自治会組織内に防火部がある場合、それをそのまま活用できると区民に呼び掛けている。現在は、消防団に吸収されたケースが多いが、当時は町会・自治会組織が消防団とは別に、消防組織を保有しているケースが全国的にまだ少なからずあったためである(現在でも港区ではほとんどの町会等に防災部がある)。このように組織された防災住民組織には、現在と同様に平常時は出火防止や防災訓練、災害時は地域ぐるみの初期消火、隣人の救出救護、避難誘導等の活動が期待された。当時、港区では、町会・自治会が一つの母体となり、広報部・防災部・予防部・調達部を設置し、最末端の組織(班・組など)は概ね三〇世帯前後を単位として編成することをイメージしていた。
昭和五二年七月には区役所・警察署・消防所主催の説明会(同五三年からは「防災の集い」)を開催し、また港区防災課は防災住民組織を結成した町会・自治会に対し、活動に要する防災資機材(トランジスターメガホン、避難誘導用ロープ)の助成や、飲料兼用消火バケツ(三角バケツ)を組織全世帯に一個ずつ配布をした。昭和五二年段階で、区内二二〇の町会・自治会のうち、三二の町会・自治会が防災住民組織を結成し、約一万五〇〇〇世帯が加盟した。さらに昭和五三年からは、組織運営費の一部の助成も開始した。
また港区は、災害時の飲料水の確保を目的に、二三区初の試みとして、昭和五三年九月に有栖川宮記念公園内に大規模井戸を設置した。これにより、一日で一二万人分の水の供給が可能となった。昭和五七年には、災害時のきめ細かな情報の提供を目的に、防災無線塔を区内七一か所(区庁舎屋上スピーカーを含む)に設置した。そして開局間際の三月下旬には試験放送を行い、四月四日に開局した。防災無線塔は、A群芝地域(一七か所)、B群芝浦・港南地域(六か所)、C群高輪地域(一六か所)、D群麻布地域(一六か所)、E群赤坂地域(一六か所)の主に小中学校や公園等の柱や屋上に設置された。
さらに港区は防災広報の一環として、昭和五九年には、防災読本を発行し、港区高齢者事業団を通して、区内全世帯に配布を行った。
そして本時期には、九月一日の「防災の日」に総合防災訓練を行うのも一般的になった。昭和五九年には芝公園・有栖川宮記念公園・青山斎場・聖心女子学院グランドで総合防災訓練を実施した。昭和六二年には、八月三〇日に芝浦会場(東工大附属高校グランド)、九月一日に芝会場(芝公園野球場)・麻布会場(麻布野球場)・赤坂会場(聖パウロ跡地)・高輪会場(高輪公園)で総合防災訓練を実施している。また昭和六二年度は、東京都と都心三区(港区・千代田区・中央区)で都心三区合同総合防災訓練を併せて実施し、初めての試みとして、麻布会場で外国人対策訓練を行った。港区では、防災訓練を実施するための環境づくりとして、地域の防災訓練を知らせるポスターを作成し、区内の防災住民組織に配付した。
本期間において、港区に大きな被害を及ぼす自然災害は発生しなかった。また全国的にみても、比較的大規模自然災害が少ない時期であったが、災害大国だけあり全国的にはいくつか中規模の自然災害が発生した。昭和五一年九月八日には、台風第一七号および九月豪雨が発生し、特に香川県・岡山県において大きな被害が生じ、死者・行方不明者は一七一人に上った。翌五二年八月には北海道で有珠山噴火が発生した。昭和五三年一月には、伊豆大島近海地震(M7・0)が静岡県で発生し、二五人の死者・行方不明者を出した。また同年六月に発生した宮城県沖地震(M7・4)では、死者・行方不明者は二八人であった。風水害もさらに発生する。昭和五四年一〇月の台風第二〇号では、全国的に被害が生じ、一一五人の死者・行方不明者が生じた。そして本期間最大の人的被害を引き起こしたのが昭和五七年に発生した七、八月豪雨および台風第一〇号であった。全国的(特に長崎県・熊本県・三重県)に被害を引き起こし、四三九人の死者・行方不明者が生じた。さらに、その後も災害は発生し、昭和五八年五月の日本海中部地震(M7・7)では、秋田県・青森県で一〇四人の死者・行方不明者が出た。また同年七月の梅雨前線豪雨では、山陰地方、特に島根県を中心に一一七人、冬期の雪害では東北・北陸地方中心に一三一人の死者・行方不明者が出た。
そして昭和六一年一一月二一日に発生した伊豆大島三原山噴火は、全島民が一か月間にわたって避難するという事態を引き起こした。港区では、「三原山噴火による大島町民受入対策本部」を設置し、伊豆大島三原山噴火で避難してきた二四四二人の被災者を噴火の翌日である二二日にスポーツセンター(一九四九人)・婦人会館(一九二人)・芝浦小学校(二〇〇人)・神明小学校(一〇一人)の四か所に受け入れた。
東京都災害対策本部からは、翌週中には大島からの小中学生を学校に仮入学させるよう連絡があり、港区教育委員会は直ちに準備に入り、二九日に芝浦小学校・神明小学校で緊急入学の受付を実施、当日就学通知書を受けたのは、小学校二一三人、中学校一三六人の計三四九人だった。
そして、火山予知連絡会が「火山活動は、短期的に見れば休止に向かいつつある」との統一見解を一二月一二日に出したのを受けて、東京都災害対策本部は、全員帰島を決定し、一九日から帰島が開始され、二二日に全員帰島が完了した。  (永田尚三)