〔第二項 消防・消防団〕

267 ~ 269 / 407ページ
昭和五〇年代から昭和末にかけて、さらにわが国の消防は発展した。
国レベルの消防機関である自治省消防庁は組織的な大きな変化はなかったが、東京消防庁においては、いくつか機構上の変化等があった。昭和五〇年(一九七五)四月に、東京消防庁は機構改革を実施し、災害や防災および救急活動に必要な情報管理体制を確立するための組織の整備を行い、指令管制業務の組織的一元化を目指し警防部指令室および救急部管制室を廃止し、総合指令部を設置した。また同年八月に、創設したばかりの総合指令部と警防部を統合した指令部を設置し、指令室および管制室の二室とした。さらに同月に、多摩市の消防事務を受託し、多摩消防署を設置した。また昭和五一年には消防行政需要の増大に伴い、千代田区大手町に新本部庁舎の建設を行い、移転した。
一方、港区内では出張所の整理を行い、昭和五〇年一〇月に麻布消防署管内の霞町出張所が廃止になり、同五五年四月には、芝消防署管内の巴町出張所が廃止になった。また昭和五九年には、高輪消防署管内に二本榎出張所を新設し、志田町出張所を廃止した。
本期間中に、港区内では幸いにして大規模な火災は発生しなかったが、全国的には様々な火災が発生した。昭和五一年には、最後の都市大火といわれる酒田大火(山形県)が発生し、死者は一人だったものの、22・5 haを焼失し焼損棟数は一七七四棟に上った。昭和五四年七月には、東名高速日本坂トンネル火災事故が発生し、死者七人、焼失自動車数一七三台の被害が生じた。昭和五五年八月には静岡駅前地下街爆発事故が発生し、地下街に関する保安基準の強化や緊急ガス遮断装置やガス漏れ警報装置などの設置の義務化につながった。また同年一一月、日本の宿泊施設火災としては最悪の被害とされる、川治プリンスホテル火災(栃木県)が発生し、死者四五人、負傷者二二人を出し、その後ホテル・旅館の防火基準適合表示制度(通称「適マーク」制度)の導入のきっかけとなった。また昭和五七年には、東京都千代田区内においてホテルニュージャパン火災が発生し、死者三三人の人的被害を出した。コスト重視の経営の結果、水道を通していないスプリンクラー偽装等が発覚し社会問題化した。
昭和五〇年代から昭和末にかけての港区内の火災件数は、図9-3-2-1のとおりである。火災件数は年間一五〇件から二二〇件ほどの間で推移し、やや減少傾向である。これは、戦後わが国に導入した消防における予防業務(消防法による事前規制)の効果が現れてきたことと、建築材の不燃化が進んだことが主な原因である。また図9-3-2-2は港区内の救急出動件数の時系列的変化をみたものである。昭和五〇年初頭に八〇〇〇件だった救急出動件数が、昭和五六年に一万件を越え、その後も増加していることがわかる。高齢化社会の到来が背景にあると考えられる。
港区では、災害から住民の生命や財産を守るため大きな役割を果たしている消防団に対して、昭和五三年から助成を実施してきた。昭和末期には、区内の四消防団計一九分団に対し、表9-3-2-1のような助成を行っている。  (永田尚三)

図9-3-2-1 港区内の火災件数(昭和50年代~昭和末)

『東京消防庁統計書』各年版から作成

図9-3-2-2 港区内の救急出動件数(昭和50年代~昭和末)
『東京消防庁統計書』各年版から作成

表9-3-2-1 消防団装備助成品目・額一覧(昭和59~63年度)
港区提供資料から作成