この時期では、治安に関して港区内で大きな動きはなかったため、本項では国内の動向を主にみていくこととする。
昭和四〇年代末のオイルショック後の財政危機、さらに昭和五六年の第二次臨時行政調査会を契機に、民間活力導入による活発な開発が時代の潮流となった。さらに昭和五〇年代末からは国際化・情報化の進展により、東京都心部での業務用床需要や再開発事業が急拡大した。そのため土地の買占めや底地買いなどの地上げが横行し、地域コミュニティの崩壊や定住人口流出を招き、昼夜間人口格差が拡大した。いわゆる都心四区に含まれる港区でもその傾向は顕著であり、昼間人口の集中加速の一方で昭和五四年(一九七九)に区内人口は二〇万人を割り、平成元年(一九八九)に一七万人台となり、同八年に一五万人を切った。
その一方で、昭和末期から平成初期にかけてのバブル景気を背景に、東京など大都市での反社会的勢力の伸長が著しいものとなった。暴力団の団体数は、昭和三〇年代初頭で約三六〇〇であったが、その後吸収・合併などで減少し、改正暴対法施行後の平成二〇年時点での指定暴力団は二二団体となった。この変化において顕著な傾向は、複数の都道府県にまたがって組織を有する広域暴力団の勢力拡大である。広域暴力団は威力と資金力によって他の中小暴力団を吸収、傘下に収めて肥大化を続けた。昭和五五年頃は山口組・稲川会・住吉会の三大暴力団の構成員数は暴力団全体の四分の一以下であったが、バブル景気以降の平成二年には全国の暴力団員の半数近くに急増した。この変遷により暴力団相互の対立抗争での銃器使用が増加する一方、国際犯罪組織との関係が進化した。拳銃、覚醒剤、麻薬などの密輸、蛇頭など国際犯罪組織との提携による集団密航者や不法就労者の受け入れ援助など、暴力団の活動は国際化してきた。
このため、平成三年に「暴力団員による不当な行為の防止などに関する法律」(暴力団対策法)が制定され、指定暴力団に関する規定が定められた。全暴力団員に占める犯罪経歴保有者の比率など一定の要件に該当し、集団的、常習的に暴力的不法行為などを行うことを助長する恐れが大きい暴力団として都道府県公安委員会が指定する指定暴力団の団員らは、威力を示した金品などの不当な要求などの行為が禁止され、その違反に対して公安委員会が中止などを命じることができると規定された。 (福沢真一)