わが国は、戦後も様々な自然災害に見舞われたが、昭和期においては地域限定型で期間も限定的な風水害が比較的多く、大規模な地震災害は少なかった。ところが、平成に入り阪神・淡路大震災や東日本大震災等の地震災害が多発し、わが国の災害対応体制は大きな見直しを迫られることとなる。国レベルにおいては、平成六年(一九九四)一〇月に国土庁防災局に災害対策課が設置され五課体制となった。翌七年に発生した阪神・淡路大震災は、戦後初めて発生した大規模な都市直下型の地震災害で、従来想定していた被災地市町村中心の災害対応の限界が明らかになった。そのため、「災害対策基本法」の改正が数回行われ、国の権限強化が図られた。そのような状況下、平成一三年の中央省庁再編によって、国土庁が廃止され防災行政は内閣府が所管することとなった。平成二三年三月一一日に発生した東日本大震災では、津波で機能不全となった自治体が発生し、災害対策基本法の改正が行われ、広域応援体制および共助体制の強化が図られることとなった。
東京都においては、平成に入ってもしばらくは総務局の災害対策部が防災行政を担うこととなった。平成三年四月には、企画課が防災計画課に改められた。平成一五年四月には、災害対策部を総合防災部に改め、その下に防災管理課・防災対策課・防災通信課を置く形に改組された。平成二八年には、防災計画課が改めて設置され、総合防災部は四課体制となる。
東京消防庁は、平成に入っても防災部の防災課・水利課・消防団課の三課体制が引き継がれるが、平成一九年四月には生活安全課が新設されて四課体制となる。さらに平成二三年には、防災部の四課が、防災安全課・震災対策課・水利課・消防団課に改組された。
港区では、平成一七年四月に区民生活部の下にあった防災課が新設の危機管理部に移管され、同一八年四月の区役所・支所改革で危機管理部は防災・生活安全支援部となったが、同二二年に防災課は新たに「部相当の組織」として設置された防災危機管理室の所属となる。なぜ部ではなく部相当の室になったかに関しては、九月二四日に開催された港区議会総務常任委員会で、委員の質問に対し、人事課長が「一たび防災危機が起こると、やはり全庁を挙げて対応していかなければならないという形で、我々は想定してございます。いざというときに、単独の部であるよりは、やはり部長級を必要とする部相当の組織として、先ほどお話し申し上げました政策調整機能を担う企画経営部の中に入ることによって、区長のトップマネジメント機能としての位置付けが明確になるということとあわせて、全庁的な対応が容易に可能になる、迅速にできるため、今回、企画経営部の中に部相当の室を設けたということでございます」と答えている。災害時においては、部横断型の全庁的総合調整が必要である。防災危機管部門の責任者は、防災危機管理室長であるが、総合調整を行う企画経営部長の総合調整機能を万全に機能させるため、同格の部長ではなく部長相当の室長にしたわけである。
港区は膨大な昼間人口を抱えているため、地震への対応体制の強化、従業員の安全対策の促進はもとより避難空間の確保、備蓄物資の区民への提供等、事業所等の地域防災への参加を求めていく必要がある。そのような港区の地域的特性を踏まえて、平成に入ってからは、港区の防災体制のさらなる強化が図られることとなった。危険落下物の実態調査を実施し、構造面などについての安全化指導を行うなど落下防止に努めると共に、事業所に防災体制作りの要請と指導を行い、事業所と地域住民が連携して防災活動ができるよう地域防災訓練などを通して日頃からの情報交換の場を作るなど、相互協力の体制づくりを進めてきた。また公園緑地などのオープンスペースの確保や 飲料水や食料をはじめとする物資の備蓄、高齢者・障害者・外国人など災害要援護者に対する安全対策等にも努めてきた。
平成七年に発生した阪神・淡路大震災においては、港区は被災地へ組み立て式簡易トイレ一〇〇基、車椅子一〇台、自転車三二台、棺三〇棺、お椀二四〇〇個、皿四二〇〇個、紙コップ五〇〇〇個、割り箸二万本、鍋一六八〇個の救援物資搬送を行うとともに、建設省の依頼を受けて被災度判定員として一月二四日から職員を五人、また避難所における被災者の支援のために二月二日から職員を一三人派遣した。
阪神・淡路大震災は直下型地震に対する都市構造のもろさを浮き彫りにするとともに、地域住民による防災活動の重要性を示した。また区民や事業所等が自らの身の安全は自ら守ることを防災の基本とし、それぞれの果たすべき役割を充分に認識し対応を図ることの重要性が明らかとなった。阪神・淡路大震災では、行政機関よりも住民組織によって救出された被災者数のほうが多かった。そして阪神・淡路大震災をきっかけに、自助・共助・公助の概念が防災の分野で認識されるようになった。主に災害・事故時の応急対応や平常時からのその備えにおいて、まず個人の自力で対応し(自助)、それでも対応不可能な部分は地域社会の助け合いで補い(共助)、さらにそれでも対応不可能な部分を行政機関で対応しようとする(公助)考え方である。つまり、公的セクターの保有する資源のみでは、大規模災害のすべてに対応するのは不可能なので、社会の全セクターの保有資源を総動員して、相互補完で社会的危機に立ち向かおうとする考え方が背景にある。自助・共助・公助の概念は、防災住民組織の活性化、地域主体での避難所運営等、港区のその後の防災への取組にも大きな影響を与えていくこととなった。
このような阪神・淡路大震災の教訓から、港区では、二度にわたり港区地域防災計画の大きな修正を行った。地域防災計画は、災害対策基本法に基づき、港区防災会議が作成する区の防災計画であるが、毎年検討を加え修正を行っている。帰宅困難者対策は後に東日本大震災発生時に実際に大きな問題となったが、既に港区地域防災計画には盛り込まれており、港区において想定される四五万人の帰宅困難者対策として、計画では、「組織は組織で対応する」ことを基本原則とし、企業・学校などの組織の責任、発災時に組織において安否確認や交通情報等の収集を行い、災害状況を十分に見極めたうえで従業員のための三日分の水・食料等の備蓄を要請している。また、災害対策本部体制の見直しを行い、夜間・休日など、職員の勤務時間外に災害が発生した時に備え、特別非常配備態勢の強化を行った。また港区では、平成八年に阪神・淡路大震災を貴重な教訓として、大災害に対する備えや地震発生時にどうしたらよいかなどわかりやすく解説した防災ハンドブック「大地震に備えて」を作成した。
平成一二年八月に発生した三宅島噴火に際しても、港区は避難者の受け入れ、住宅や物資提供を行った。八月三〇日に、前日に避難し竹芝桟橋に到着した三宅島の小中高等学校の児童生徒に日常生活物資(下着セット、洗面用具、石鹸、タオル、テレホンカード、ジュースなど)を贈呈した。また、区内の都営住宅や区立住宅などに避難した町民に対し、生活ホットラインを開設し問い合わせに応じたり、図書館や福祉施設などを区民同様に利用できるパスポートを発行したりするなどの支援をした。
平成一六年に発生した新潟県中越地震でも、物資輸送や職員派遣により被災者・被災地を復興支援した。平成一八年には、防災情報メールの配信サービスを開始した。
また平成一八年四月に港区は、区民にとってより身近な場所で行政サービスを実現できるよう五つの総合支所を設ける、区役所・支所改革を行った。そして総合支所の単位で区民参画・協働のまちづくりが現在まで行われてきている。本改革以降、防災においても区と地域の連携協働関係が強化され、総合支所単位を基本とした地域主体の取組が定着していった。平成二二年四月には、港区は区役所・支所改革の検証と課題整理を行い、支援部組織を再編した。そして、防災危機管理室は、防災・危機管理・生活安全等について担当する支援部と位置付けられ、総合支所と区民本位の視点に立脚した円滑な区政運営を推進していく上で、相互に補完し合い区民を支援していくこととなった。
平成二三年三月に発生した東日本大震災では、被災地への救援物資の搬送、支援職員や医療チームの派遣を実施した(巻末表9-4-1-1)。港区では、大震災発生後、直ちに災害対策本部態勢(大震災区政運営会議)を組み、緊急対応に着手するとともに、当初予算を組み替え、区有施設の防災機能の強化、保育施設等への防災用品の配備など、災害対策の充実・強化に取り組んだ。さらに、被災者支援として、避難者を期限付きで臨時職員として区で雇用を行った。また東日本大震災を受け、平成二三年四月に区民の安全安心の確保を最優先とし、短期集中的に災害対策等の充実と強化に取り組むため、大震災緊急区政運営会議が設置され、同年一〇月には、区・区民・事業者が取り組むべき基本事項を定めた「港区防災対策基本条例」を制定した。区有施設の震災・津波対策の強化や放射線測定をはじめ、家具の転倒防止や高層住宅の災害対策など区民への支援、事業者の施設設備の安全性の確保や、帰宅困難者対策等の協力支援の実施などにみられるような、区・区民・事業者が「自助」「共助」「公助」という防災の基本理念に基づき、それぞれが役割と責任を果たす施策の推進を行った。帰宅困難者対策に関しては、東日本大震災を契機に、帰宅ではなく事業所にとどまる方向に変わってきた点等も踏まえた、区・区民・事業者間の協力体制の構築が求められる。また、東日本大震災以降、前述のとおり広域応援体制の強化が全国的に図られることとなったが、発災後広域応援が到着するまでには、ある程度のタイムラグが生じる。その間、地域の公助が機能不全に陥ってしまったら、被災者の救助は自助・共助で行う必要性が生じる。そのため、自助・共助体制の強化が重要となってくる。平成二四年のこれらの条例を踏まえた災害対策の予算額は、二六億七七六八万三〇〇〇円に上った。
また平成二五年には、防災アプリの配信サービスを開始した。平成二八年に発生した熊本地震・鳥取地震の被災地では、救援物資搬送や鳥取県北栄町の落果梨の買入、支援職員派遣を実施した。そして熊本地震など自然災害から得た教訓を踏まえ、避難勧告等の発令基準の周知および伝達体制の整備、避難所運営の課題整理および機能強化、要配慮者支援策の構築を行った。
平成二九年には、東日本大震災や熊本地震の教訓を受けて、震災発生後に一刻も早い生活の再建、事業の再開およびまちの再生を実現するため、災害対策基金を震災復興基金とし、新たに積立を始めた。さらに280メガヘルツ帯防災ラジオの台場地区世帯への有償配布を開始し、また同年四月に区民住宅における防災対策(家具転倒防止器具設置による壁穴)の原状復帰義務免除を実施した。  (永田尚三)