〔第二項 消防・消防団〕

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わが国の消防は、平成時代に大きく発展をする。消防庁は、平成一三年(二〇〇一)の省庁再編で本省であった自治省が総務庁や郵政省と共に総務省になったことにより、その外局となった。また、東京の消防行政は、平成に入ってからも引き続き東京消防庁が担う形となった。
平成に入り阪神・淡路大震災や東日本大震災といった大規模自然災害が多発したことは、わが国の消防行政にも大きな影響を与えた。平成時代の消防行政における大きな変化は、消防防災行政(消防の災害対応の部分)体制の強化である。平成七年一月に発生した阪神・淡路大震災では、相互応援協定(市町村間であらかじめ協定を結んでおき、災害時に互いに助け合う制度)に基づき多くの消防本部が被災地に駆け付けた。ところが消防無線の連絡先を互いに知らず、連絡調整に大きな課題を残した。また、被災地に駆け付けた東京消防庁の消防隊は、消火栓の接続口の規格が、被災地の消防本部と異なったことにより消火活動に支障が生じた。市町村消防で、個別に装備や設備の整備を長年行ってきた結果、消防本部間で装備の互換性等がないことが明らかになったのである。そのような状況は、管轄区域内に完結して消防活動を行う限りは問題がないが、大規模災害時の広域応援においては大きな問題となる。
そのため、消防庁は緊急消防援助隊を創設した。緊急消防援助隊は、大規模災害時の人命救助活動をより効果的、かつ迅速にできるよう、全国の消防機関相互による援助体制を構築する目的で、平成七年六月に創設された。市町村消防側が被災地に派遣できる部隊(当初は救助・救急部隊等、後に消火部隊・特殊災害部隊・航空部隊・水上部隊も登録部隊として含まれた)を事前登録しておき、いざ大規模災害が起きた時に、都道府県単位で部隊を編成し出動するというものである。事前登録制にしたのは、当初緊急消防援助隊の根拠法がなかったので、「消防組織法」第二四条の三による応援措置要求の枠内で円滑に出動するためである。
当初は、要綱設置という形でスタートし、大規模災害発生時には、被災自治体からの要請により出動し、現地の市町村長の指揮下で活動することを任務としていた。緊急消防援助隊を定める法律上の規定がなく、派遣に要する経費も市町村の自前であった。そこで総務省消防庁は、消防審議会の「国、地方の適切な役割分担による、消防防災、救急体制の充実に関する答申」(平成一四年一二月二四日)を受けて、平成一六年四月一日施行の消防組織法の改正により、緊急消防援助隊を制度化するとともに、緊急消防援助隊に対する消防庁長官の指示権を定めた。また派遣に要する予算および必要な装備を整備するための予算も国から支出されることとなった。これにより、国は緊急消防援助隊に対する出動指示権を確立し、各都道府県部隊がいつどこで救助活動を行うか等の指示を行うことが可能となり、消防の実働部隊を持たない国が災害時の被災者救助のオペレーション活動に一定の関与が可能となった。市町村消防本部の部隊の寄り集まり所帯であった緊急消防援助隊に、国の実働部隊的な側面が付与されたのである。
緊急消防援助隊は、平成一六年一〇月二三日に発生した、新潟県中越地震においても活躍をした。本地震においては、母子三人の搭乗した車が土砂崩れに巻き込まれたが、うち一人の生存者の救出を行い国民の注目を集めた東京消防庁のハイパーレスキュー部隊も、緊急消防援助隊の一隊として出動した部隊である。
平成二三年三月一一日に発生した東日本大震災では、午後二時四六分に震災が発生した後、午後一五時四〇分に消防庁長官から緊急消防援助隊に対し出動指示が出され、一四日午前には緊急消防援助隊の制度ができて以来初めてとなる、全都道府県の部隊が被災地に出動するという事態になった。東日本大震災にかかる緊急消防援助隊の出動は、六月六日をもって活動終了となったが、八八日間にわたり総派遣人員数二万八六二〇人、派遣部隊数七五七七隊、また延べ派遣人員数は、一万四九三人、延べ派遣部隊数は二万七五四四隊に上った。福島原子力発電所事故についても国からの要請で六五五人の消防隊員と一三四隊の消防隊が五月一八日時点で現地に出動した。
このように平成期の消防においては、大規模自然災害が多発したことにより、消防の災害対応体制の強化が図られたが、平常時の消防活動においては、火災件数の減少等が生じた一方、救急需要の急増や消防団員数の減少が大きな問題となっている。救急需要の急増は、高齢化社会の進展が背景にあるが、国民の命に直結する行政分野であるだけに深刻な問題である。
救急においては、平成三年四月「救急救命士法」が可決成立し、救急隊員の救命処置が厚生労働大臣免許による業務として位置付けられた。これによりわが国の救急は、それまでの搬送救急から、救急車内で一定の救急救命措置(プレホスピタルケア)を救急救命士が行えるようになった。一方、救急出動件数は図9-4-2-1のように年々増加傾向にあり、救急需要の増加に救急サービスの提供が追いつかない状況が生じ始めた。
救急の需要に十分に対応できない地域では、最寄りの救急自動車が出払った結果、現場到着に手間取るケースも出てきている。一一九番してから現場に救急隊が到着するまでの時間の全国平均は年々遅延傾向にあり、平成二八年度は八・五分である(図9-4-2-2)。一般に緊急を要する患者を救命するためには、五分以内に救命処置を施さねばならないと言われており、すでにその時間を上回っている。

図9-4-2-1 救急出動件数(平成9~令和元年)

自治省消防庁・総務省消防庁『消防白書』各年版から作成

図9-4-2-2 救急自動車の現場到着時間(平成9~令和元年)

自治省消防庁・総務省消防庁『消防白書』各年版から作成


また、消防団問題も大きな問題である。消防団は、地域住民で構成された義勇消防組織で、消防団員は非常勤特別職の地方公務員である。よって、本来は公助の組織であるが、全国的な消防の常備化の進展により、近年は自主防災組織(町内会・自治会単位で構成された住民による防災組織)とともに、わが国の共助体制の大きな柱となっている。ただ、その消防団員数の減少に歯止めが掛からず、また高齢化も年々進んでいる。このような消防団の衰退傾向は、一般的には、地域コミュニティの希薄化や消防常備化の進展等により引き起こされたものであるが、放置するとわが国共助体制の弱体化、ひいてはわが国の災害対応能力の弱体化につながるため、極めて深刻な問題である。これら救急や消防団の問題は、令和へと引き継がれているが、今後抜本的な解決が早急に求められている。
では、平成期の港区の消防は、どのような状況であったのだろうか。港区内の消防体制は、平成に入ってからは芝・高輪・麻布・赤坂の四消防署、八出張所体制となった。芝消防署の下に芝浦出張所と三田出張所、高輪消防署の下に三光出張所・港南出張所・二本榎出張所、麻布消防署の下に飯倉出張所、赤坂消防署の下に新町出張所が置かれた。
これらの消防署管内における平成期の火災件数は図9-4-2-3のとおりである。港区内の火災件数は大きな変化がなく、毎年二〇〇件前後である。極めて密集した都市部である港区において、本火災件数は少ないほうであり、日頃の予防消防の取組や建物の建築材の不燃性の向上が大きな要因といえよう。
また救急出動件数は図9-4-2-4のとおりである。港区内においても平成年間に二倍以上に増加している。
港区は、平成一八年四月の区役所・支所改革以降、五つの総合支所単位での区民参画・協働のまちづくりが現在まで行われてきている。その一環として、地域住民によって構成された消防団および防災住民組織による共助体制の強化は極めて重要である。港区は、消防団・防災住民組織支援のための防災資機材の充実および防災倉庫の整備を実施する他に、地域の防災リーダーとして初期消火や人命救助にあたる消防団の訓練や活動支援を行っている。  (永田尚三)

図9-4-2-3 港区内の火災件数(平成時代)
『東京消防庁統計書』各年版から作成

図9-4-2-4 港区内の救急出動件数(平成時代)
『東京消防庁統計書』各年版から作成