〔第二節 戦後復興と港区の産業(昭和二二~二八年)〕

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アジア・太平洋戦争における敗戦は、わが国の産業・経済に対して致命的打撃を与えた。死亡および行方不明者は、三一〇万人に達したとされる。工場・機械・商店・交通施設・住宅等あらゆる施設が多大な損害を受けた。経済産業省の「太平洋戦争前後の鉱工業指数」によれば、鉱工業生産は、太平洋戦争が始まる直前の昭和一五年(一九四〇)は一〇〇・二であったが(同三〇年を一〇〇)、敗戦した同二〇年には四四・六、そしてその翌年には一八・九と、開戦前の五分の一まで落ち込んだ。その後、戦後復興の中で生産は上昇していったが、太平洋戦争前と同水準となるのは、敗戦から一〇年後となる昭和三〇年であった。この昭和三〇年は、経済白書で「もはや戦後ではない」と言われた年であり、この後、長期にわたる高度経済成長が実現する。この復興の中で、繊維などの軽工業に代わって化学や石油製品をはじめとする重化学工業が台頭し、主産業の交代が進んでいった。
東京都の戦災による被害は、『東京都戦災誌』(一九五三)によれば、死亡者は九万四二二五人、重傷者三万三九七四人、軽傷者九万九三六六人であった。このうち当時の芝区の死亡者は二五七人、重傷者四二〇人、軽傷者一六一〇人、麻布区の死亡者は一八〇人、重傷者一九七人、軽傷者一三〇六人、赤坂区の死亡者は六一四人、重傷者五一五人、軽傷者五〇三八人であった。各区別の被害についてはわからないが、東京都内の工場建築物の被害は被害面積が二〇万一〇〇〇坪、被害額五億一〇万円、東京都内の商業建築物の被害は被害面積が四六六〇万坪、被害額一九億三三五三万円であった。また、私有建築物については、一五七一万 九九二二坪、全国に占める割合が29・5%、被害額四八億八八八九万六〇〇〇円、全国に占める割合が38・6%であり、東京都の被害は他の都道府県と比較しても大きかった。さらに、区別の被害についても被害戸数や被害面積を見ると、麻布区と赤坂区は罹災面積が70%を超え被害が大きかったことがわかる。
こうした被害から立ちあがり、復興を遂げた港区の姿を次項から見ていく。

表10-2-1 区市郡別住宅被害戸数と被害面積

『東京都戦災誌』から作成。被害住宅戸数の旧東京市15区の小計は数値の計算が合わないが、そのまま引用した