三井住友トラスト不動産の資料によれば、「『太平洋戦争』によって大きな被害を受けた『新橋駅』前では、終戦直後に自然発生的にヤミ市が生まれ広がった。西口のヤミ市では、一九四六(昭和二一)年に建物が建設され、『新生マーケット』が誕生した。当初は各商店の看板を総ネオン化するなど、東京随一の明るい商店街を目指したが、火災や周辺商店街の復興などの影響で賑わいは失われ、当時はまだ非合法であった居酒屋が多数集まるようになった」ということである。
図 10-2-1-1 昭和34年の新橋駅西口
商業は終戦後、比較的早く統制がはずされた雑貨品を中心に徐々に復興の軌道に乗った。新橋付近を中心として、田村町、三田、赤坂溜池等が中心となり、昭和二四年八月一日現在における区内の商店数は五六五四店となり、二三区の総数一〇万三九四〇店のうち約5・5%を占め、都内の順位は六位となった。また、昭和二四年八月一日現在の商業従事者数は一万七九〇三人で、区内全産業中、製造工業についで二位であった。年間売上高は一五億二七九〇万七〇〇〇円であった。明治四三年(一九一〇)に果物商として創業した「紀ノ国屋」は、昭和二八年、お客が自ら商品を選びレジで精算する日本初「セルフサービス・スーパーマーケット」を青山に開店した。
戦争前の昭和六年には、当時の芝・麻布・赤坂の三区に、一万三三九軒の商店が分布していたので、55%が回復したことになる。他の周辺区からみると、奇跡的な復興とされていた。特に、終戦後港区で商業を営んだ人々は、当時の調査によると、40~50%が、戦前・戦中を通じて商業と関係がなかった人々であり、戦後の区内の商業は旧商人の復活によってなされたのではなく、新興の商人の台頭によって推進されてきた。とりわけ、こうした商業発展の中心は、主として一般卸売業と飲食料品小売業であって、港区の商業発展の原動力がここにあった(『新修港区史』)。
港区の商店街は、東京の都市としての成長とともに展開し、震災、戦災を乗り越え、増加していった。
港区の現在の商店街の基礎となった商業者団体の設立時期は、東京市産業局商工課の『東京市産業関係団体便覧』(一九三八)によると、最も古い商業者団体は、明治四年に旧芝区の白金台二丁目に設立された商栄会ということである。初期の商業者団体は、主に現在の芝地区、高輪地区を中心に設立され、一九二〇年代以降になると麻布地区、赤坂地区にも多数設立された。昭和一一年の時点で、現在の港区の範囲に四三の商業者団体が設立されている。昭和二九年一二月のデータによれば、区内の商店街数は三六団体あり、戦後に減少している。