工業

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昭和二五年の朝鮮戦争を機に日本経済は実質的に復興し、特需・内需および輸出の面で、著しく発展を遂げた。昭和二六年七月に朝鮮休戦会談が行われた時点で、この好況ブームもひとまず終息し、世界経済全体は景気後退を余儀なくされたが、日本では昭和二七年から二八年にわたって、工業的な設備投資が盛んに行われ、消費購買力も上昇し、港区においてもこの影響を大きく受けて、休みなく発展を遂げた(『新修港区史』)。
経済成長の結果、インフレーション進行の危険が生じたため、デフレ政策がとられ、昭和二九年以降は、金融引締め政策が強化されることになった。港区の工業の特徴として、倉庫業など原材料を輸入し保存する業種の割合が少なくなかったため、デフレの影響も当時それほど直接的なものではなかった。港区は軍需工場とは比較的関連が薄かったので、政策的な景気変動の影響を直接受けずに済んだ。
また戦時中、軍需生産中心に向けられていた工場については、萱場製作所が航空機部品生産から農機具、農産物加工機械等の生産に切り替え、名称も萱場産業と変えたことが象徴的に当時の動向を伝えている。アメリカ資本の影響力も工業に影響を与える新しい要素となった。その好例が日本電気である。昭和二五年アメリカISE社から技術導入を図り、販売面のみならず資本提携へと進んでいった(『新修港区史』)。
工場数については、「港区勢概要」(昭和二六年版)によれば、昭和二四年一二月末日現在における港区内の工場数は五四七工場で、これを二三区の総計二万二四六六工場に比較すると一三位であり、生産額においても一三位であった。生産額は電気機械工業が最も高く、二三区における同部門生産額の12・5%を占め、品川区に次いで二位であった。家具工業がこれに次ぎ6・73%であった。港区内における工業部門別の生産額比率では、電気機械工業が区内生産額36・55%であり、機械工業11・51%、化学工業11・45%、印刷工業9・71%と続いた(図10-2-1-2)。規模では、九人以下の小工場が三五八工場もあり、全体の66%を占めていた。

図 10-2-1-2 港区の工業部門別工場生産額比率

「港区勢概要」昭和26年版から作成。加工賃を含む