〔第三項 東京湾の開発による漁業の衰退〕

324 ~ 325 / 407ページ
東京湾での開発の影響を受け、漁業は衰退していった。その背景には汚染の問題があった。
『東京都内湾漁業興亡史』(一九七一)によれば、戦後の大東京の復興開発は急速に進み、人口の都市集中化や、各種産業の発展などに起因する沿岸水の悪化は、昭和二五年以降急激に現われはじめた。その結果、昭和三〇年頃に、それまで水深5m線内外から深部にかけて操業していた打瀬(うたせ)、桁網(けたあみ)漁業は、内湾区域から姿を消すに至った。昭和三一年以降は水質汚濁による紛争問題が頻発するようになり、特に、同三三年六月には近年にない異常渇水とも重なり、隅田川・荒川・中川・江戸川においては、河川の汚濁が著しく、この年の四~六月にかけては江戸川下流部にある本州製紙工場の廃水による大事件が発生した。加えて、同年夏には、隅田川沿岸の浅草一帯に悪臭ガスが発生した。こうした単一の汚水源によって起こる影響に加え、総合排水によって蓄積されて起こる被害は、気象海況とも関連して頻発するようになった。さらに、東京港への船舶の出入が増大し、沿岸工場からの廃油の流出など、ノリ漁場はじめ一般漁業に大きな影響を与えた(例えば昭和二九年の東京ガス会社の重油流出事件など)。もともと、回遊性魚類は漸減しており、それが戦前の網漁業の淘汰となっていたが、戦後の顕著な悪化は、漁業圧迫の最大要因となったとする。
こうした汚染問題に加え、前掲の『東京都内湾漁業興亡史』では、東京湾の埋め立ても漁業に影響を与えたとしている。明治二〇年(一八八七)以降、東京港の整備事業が開始されるとともに、沿岸部の埋立造成事業が、年とともに次第に活発化し、江戸時代から好漁場であった沿岸漁場が陸地化しその周辺が荒廃した。特に品川区地先から江戸川区地先にみられた藻場(もば)は、その一部を除いてほとんど陸地化した。その結果、それまで操業していた藻打瀬網、手繰(てぐり)網を駆逐し、藻場を生息場とした魚族の繁殖源を奪った。
さらに、戦後の人口増加に伴って、産業と経済の健全化を目途に、昭和三一年に公布された「首都圏整備法」に基づいて、東京都は首都としての膨大な整備計画を進めることとなった。その中の東京港計画、港湾区域についての内湾漁場の埋立問題は、昭和四五年度を目標に4440万㎡(約七四〇万坪)を造成するという計画となり、東京内湾四〇〇〇世帯の漁民にとっては大量の漁場の喪失という死活問題に直面した。
東京都は、昭和三四年一〇月、漁業対策審議会を設けて漁業との調整を図ることになったが、漁業権の全面的放棄に対する補償対策となり、その解決には三年を要した。最終的には、同三七年一二月、由緒ある漁業の歴史を残して三三〇億円の代償によって内湾漁業は終止符を打つに至ったとする。
以上のように、漁業は、臨海工業地帯形成による工場汚水、埋立などの東京港の発達による漁場の減少などを受け、徐々に衰退していった。漁業従事者は他産業への転換あるいは、網船、釣船等に転身する傾向が見られた。数値をみても、昭和二八年の段階では、港区内の漁業従事者は六三世帯であったが、五年後の同三三年には、四八世帯と減少している。  (三田妃路佳)