昭和三〇年代の高度経済成長によって産業、経済の目覚ましい発展と物質的豊かさがもたらされた。他方で、負の部分もみられた。経済優先政策によって、環境対策が遅れた結果、いわゆる「四大公害」(熊本水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそく)が発生した。大規模な環境破壊による国土の荒廃や乱開発、資源の大量消費の結果としての粗大ゴミの増大、自動車交通の増加、「集団就職」「通年出稼ぎ」等にみられる農村から都市への大量の人口移出に対応しきれず、下水道等の都市施設が不足したことなどによる様々な問題が発生し、住民の生活環境は悪化した。
また、昭和四八年(一九七三)第四次中東戦争の勃発に伴い、OPEC(石油輸出国機構)加盟国が、原油生産の削減・原油価格の大幅引き上げなどの石油戦略を打ち出したことで、オイルショックが起こった。当時、輸入原油に依存してきた日本経済はその影響を受け、電力・ガス・石油化学製品などが値上がりし、消費者のインフレ心理から引き起こされたトイレットペーパーや洗剤などの「買い急ぎ」「買いだめ」や、企業側の「売り惜しみ」等が起こり、「狂乱物価」と言われる激しい物価上昇が起こった。
港区でも、自動車等の排出ガスによる大気汚染、自動車・建設工事による騒音・振動、河川・運河・海の水質汚濁、悪臭等が発生した。特に、港湾地帯および古川流域の低地帯の環境悪化が著しかった。このような状況を反映し、昭和五〇年度には一九二件の中小企業が倒産し、その負債額は二一五〇億円に上った。
このように高度成長には影の部分もあるが、成長を受けた光の部分もあった。港区は都心区として、中枢管理機能が多数集中し、多くの業種の事業所が分布していた。なかでもサービス、情報産業の発展は目覚ましいものがあった。以下では、各産業の動きを見ていく。
工業では、軽工業の出版・印刷・同関連産業、重工業の金属製品、電気機械器具が主要産業であった。また、家具・装飾品も伝統があり、出版・印刷・同関連産業に続き、軽工業の主力となっていた。
商業については、港区全事業所の約半数を占めていたことから、港区が商業地区であったことがわかる。
さらに産業別でみると、卸売·小売業が全体の47%、サービス業が27%となっていた(「港区基本計画」昭和五三~六〇年度、図10-4-1-1)。卸売・小売やサービス業は、一九六〇年代から七〇年代、さらに八〇年代と順調に成長していった。

図10-4-1-1 産業大分類別事業所数の推移

昭和41~56年は「みなと区政要覧」昭和58年版、昭和61年は「港区行政資料集」昭和62年度版から作成