アジア・太平洋戦争の戦災によって区内は多大な被害を受け、工場などの設備はほとんど失われた。また、海外からの復員や引揚者、戦時体制からの動員解除などにより、多くの失業者が区内にみられ、就労支援が重要な課題となっていた。こうした終戦直後の社会情勢のなかで、区が取り組んだ就労支援事業は失業対策事業、共同作業所運営事業、公益質屋事業、生業資金貸付事業の四事業であった。
昭和二四年(一九四九)五月施行の緊急失業対策法を受けて、同年八月に東京都から失業対策事業を委託されて実施したことが、区の就労支援事業の始まりであった。その事業内容は主に道路工事・河川工事・整地工事といった簡易な工事であった。当時、これら工事作業に携わった失業者の多くは戦争被害者で、工事作業の経験者はほとんどいなかった。事業従事者の勤労意識は低く、工事作業に必要な道具や機械は揃っておらず、賃金は同じ金額(当時、日当二四〇円、「ニコヨン」と呼ばれていた)であったため、作業能率は悪く、開始当初の事業効果は期待されたほど高くはなかった。こうした状況を是正するため、区は昭和二六年度から事業従事者の中から作業能率のよい者を「選」として選定し、道路の舗装工事に従事させるようにするなど、作業能率を上げるための取組を進めた。
昭和三〇年度からは、「選」の中からさらに体力検定を行い、合格した者が高度の土木事業に従事できる特別失業対策事業を開始し、昭和三一年度からは失業対策事業の新規事業従事者として登録した人たちを対象に作業に必要な技能を身につけるための現場での実地訓練を八日間実施した。
こうした失業対策事業はその後、次の動きがみられた。昭和六一年四月の国の通達により同事業の終息を図るため、紹介対象者に年齢制限が設けられ事業の規模が縮小され、平成四年(一九九二)九月三〇日に廃止された。一方、自立引退した就労者の生活激変を緩和するため、昭和六一年九月に都を事業主体とし区が事業発注主体となって公園清掃を中心とした任意就業事業が新たに開始されたものの、平成四年に事業主体の都と事業打ち切りの合意がなされた。平成五年以降の詳しい実施状況は、資料から確認することはできない。