〔第二項 戦後復興と衛生事情〕

55 ~ 58 / 339ページ
終戦後の食糧事情は芳しくなく、食中毒の発生が多いことから、行政による食品監視業務が求められた。そこで昭和二三年一月、食品衛生法が施行され、食料関係の営業は許可・認可を必要とすることになり、営業状態監視のため食品衛生監視員制度が設けられた。監視員は食品店舗の採点を行い、秀や優や不可などの等級をつけ店先に明示させた。成績不良店に対しては基準違反として施設改善命令、または営業停止などの行政処分を行った。この取組はやがて秀優などの表示に改められ、優良店のみの表示制度になり、一種の表彰制度として利用されるようになる。
食品の一斉取締を大規模に行うこともなされ、以降、随時一斉検査として継続された。これらの強力な監視、摘発制度は大部分がGHQによる間接統治という状況の中で消費者本位を目指して行われたものであったが、わが国の公衆衛生に与えた影響は大きく、以後、衛生状態が改善されていく。
都では食肉、乳製品などが腐敗しやすいことから、特に気を配り厳重に監視を実行した。芝浦屠場(とじょう)では、獣医学的知識やそのほか科学的知識を総合的に活用して、屠肉の厳密な検査を行い、有害な疾病獣肉を排除し、安全な獣肉の提供が目指された。危険なものは完全に処理することで獣肉の衛生的で安全な食品としての側面が強調されたのである。
終戦直後には環境衛生の推進の必要性も力説され、昭和二五年から保健所に専任の環境衛生監視員が配置され、大衆の利用する理髪、理容所、旅館、公衆浴場、興行場、温泉、プール、クリーニング所などが衛生的見地から厳しく指導、監視されることとなった。加えて、環境衛生の一環として蚊とハエ、そしてねずみなどの害虫・獣を駆除する運動も実施された。
昭和二八、二九年頃、アメリカシロヒトリという「が」が発生し、各地の樹木を枯れさせ、区民を困らせたことがあり、以来区役所での街路樹の害虫駆除の活動につながった。昭和三二年度には芝地区愛宕四之部連合町会(虎ノ門、琴平町、栄町および西久保各町)と愛宕一丁目町会が厚生省(当時)のねずみ総合駆除モデル地区に指定され、各町会員の協力によって事業の実施をみた。
区民の健やかな生活のためには感染症対策も重要視される。終戦時の結核の蔓延(まんえん)は著しく、食糧事情の悪化、また休養の不足や住宅不足等悪条件の中で、結核対策は困難を極めた。保健所は予防知識の普及、BCG接種、集団検診の促進などに取り組んだ。またストレプトマイシン(SM)の輸入が実現すると、化学療法への道が切り開かれ、その利用は広がっていった。昭和二六年「新結核予防法」が制定されると、健康診断、予防接種、患者管理、感染防止、医療費の公費負担等に基づき結核予防の体系化が目指された。『港区史』(下、一九六〇)によると、結核対策に取り組んだ結果、結核死亡者数は昭和二六年には統計が始まって以来初めて一〇万人を下回った。港区の芝地区では昭和二七年は一一四六人の患者が観察されたが、同二八年は八五〇人になり、その後漸減し、同三三年には六一九人になった。結核による死亡者は同じく芝地区について見れば、昭和二四年の二五七人から次第に減り、同二七年には一一一人、同三三年には四五人となる。麻布・赤坂においても、結核による死亡者の減少が確認された。
終戦直後、発疹チフスと痘瘡(とうそう)の流行が見られたが、これらもほどなくして減少に転じ、以後、ほとんど発生しなくなった。加えて、腸チフス、パラチフス、ジフテリア、日本脳炎も順次減少していった。予防衛生の効果が発揮されたといえよう。
一方、終戦直後から赤痢と猩紅熱(しょうこうねつ)の被害は無視することができず、赤痢は昭和二七年に、都内で赤痢患者一万六四二六人、区内でも芝地区に四三〇人、麻布地区に九三人、赤坂地区に三八人、合計五六一人罹病し、一八人が死亡した。そこでラジオやポスター、立て看板、パンフレット、移動展などを通じて赤痢予防に向けた区民の関心を高めるための活動を行った。
また病菌の媒介をするハエの駆除を図り、食品業者、集団給食施設従事者などの保菌検査を通じた予防活動も実践された。その結果、芝、赤坂保健所管内を含めた都内一般では、昭和二七年を境として急速に赤痢患者の発生が減少した。ただ麻布保健所管内は、昭和二七年を境として一度減少し始めたが、同三〇年再び増加に転じ同三一年も多かったが、同三二年から減少する傾向を示した。
子どものかかる猩紅熱は、昭和二八、二九年を頂上として減少に転じたが、同時期の赤痢患者数ほどの被害を出していた。ただ、抗生物質による治療が進み、病状は一般に以前より軽く済むようになったとする報告例が見られるようになる。細菌への対策として抗生物質など治療剤の効果が認められるようになると、感染症による死亡率は一般に低くなった。
昭和三三年にはポリオの大流行が見られ、未熟児養育医療と保健指導の強化が叫ばれる。三年後にはポリオ予防接種が開始された。  (小島和貴)