昭和二六年(一九五一)、死亡者数一位であった結核は、同二七年には三位に下がり、同三二年には五位、同三三年には四位となっている。一方、脳血管疾患、悪性新生物によるものが増加する。昭和三三年の動向を見るならば、日本人の死亡率一位に脳血管疾患、二位に悪性新生物、三位に心疾患という順である(図12-2-1-1)。この三つの健康問題は以後、悪性新生物と脳血管疾患が入れ替わるものの、日本人の三大死因として注目されるようになる。この三位までの合計は、全死亡者中、芝地区では51・3%、麻布地区では47・5%、赤坂地区では47・4%を占めた。加えて高度経済成長期には機械の発達などによる不慮の事故死や社会への失望などを要因とする自殺も増加傾向を見せた。
大正期以降、日本では母子保健と乳幼児死亡率の減少を実現するための取組が必要とされ、実践されてきたが、昭和二二年の「児童福祉法」の制定を受けて保健所は母子保健対策として児童妊産婦の保健指導、身体障害児対策、未熟児対策を行い、昭和三〇年以降、乳幼児死亡率の減少は顕著となる(図12-2-1-2)。
乳幼児死亡率の減少を実現する一方、昭和三〇年にはヒ素ミルク中毒が広まり問題となった。そのため食品添加物の安全性に対する問題が人々の関心を呼んだ。

図12-2-1-1 日本の主要死因別死亡率(人口10万対)の年次推移(昭和30~平成13年)

「日本における人口動態」(厚生労働省、2002)および「人口動態調査」(同、2021)から作成

図12-2-1-2 乳児死亡数および乳児死亡率(出生千対)の年次推移(昭和30~平成13年)

「日本における人口動態」(厚生労働省、2002)から作成


高度経済成長期には国民皆保険が達成され、国民誰もが医療保険制度および年金制度の恩恵に与(あずか)る機会を獲得する。これを達成したのが昭和三六年のことであったが、この年には三歳児健診および新生児訪問指導への取組が開始され、この二年後には高齢者の健康増進活動の一環として六五歳以上の健康診査が市町村の業務になったことで、港区もこれに取り組んだ。昭和三九年は東京オリンピック・パラリンピックの年として記憶されるが、この年は妊娠中毒症医療援助、そして生活習慣病への対策が開始される。生活習慣病はこの時期は「成人病」と称されたことから、これらの対策をとるべく保健所には成人病相談室が開設された。
経済成長の「ひずみ」としての公害問題が顕著になるのもこの時期である。これは池田勇人政権から佐藤栄作政権にかけて徐々に顕在化してきた。公害は不特定多数の人々に被害を与える。その主なものは薬品によるもの、騒音、ばい煙、放射能雨などであるが、大都市の一角を形成する港区民にとって直ちに問題となったのが騒音とばい煙であった。騒音には工場を原因とするもののほか、交通騒音や街頭放送の騒音などが問題視された。公害による健康被害者に対する公正な保護を目的とした「公害健康被害補償法」が、昭和四九年九月一日に施行されると、同年一一月三〇日、港区は第一種地域(大気汚染系)に指定された。港区では昭和五〇年六月二六日、第一回認定審査会を開催し、以後、七月中に二回の認定審査を行った結果、翌月には七九人が公害病患者として認定された。このような呼吸器系の公害健康被害者に認定されると、その疾病についての医療費等のほか、補償費が支給された。
港区では現に発生している健康問題だけでなく、健康な生活を実現するための保養への取組も進めた。昭和四一年七月一日には、区民いこいの家「仙石みなと荘」の受付が開始され、八月一日から利用できるようになった(図12-2-1-3)。利用料金は当時、一泊二食で九〇〇円であった。仙石みなと荘は、箱根仙石原(神奈川県)に区民のためのいこいの家として建設されたものである。このいこいの家は箱根仙石原の高台に位置し、野尻桃源台から東に開ける仙石原を前景に、明神ケ岳、金時山、乙女峠、長尾峠などを眺められる施設であった(図12-2-1-4)。
こうした取組は以後も継続し、昭和五七年には湯河原温泉郷(神奈川県)に区民保養所として「司旅館(委託)」がオープンする。区ではこの保養所のある湯河原を、気候が温暖、冬は暖かく、夏は涼しく、遠浅の海岸があり海水浴もできるなど保養には最適な場所として区民への広報に努めた。平成一〇年(一九九八)には老朽化した「仙石みなと荘」に代わり、神奈川県足柄下郡箱根町大平台温泉に新たな区民保養施設「大平台みなと荘」も完成する。特に高齢者や障害のある人にも安心して利用できる施設となった。

図 12-2-1-3 仙石みなと荘(昭和42年)

図12-2-1-4 仙石みなと荘の周辺図

「区のお知らせ」昭和41年6月25日号から転載