乳幼児死亡率の低減化に成功し、がんや心疾患をはじめとする生活習慣病対策の必要から保健所の再編が進む一方、感染症の脅威がなくなったわけではない。戦前のようにコレラや「スペイン風邪」のような何十万人という死者を出すような感染症の流行は戦後しばらくすると日本では観察されなくなったが、結核のように治療可能な疾病と目されるようになっても感染者を減らすことが課題とされ、さらにエイズや新型インフルエンザなどへの対策は求められ続けている。そして平成一二年には「健康危機事例」が頻発したとの判断から「地域保健対策の推進に関する基本的な指針」が改められ、健康危機管理という視点が強く打ち出されるようになる。健康を脅かす「危機」としてただちに想起されるのが、新興感染症や食中毒などであるが、ここでの含意はこれらに留まるものではなく、地震や津波などの自然災害、さらにはバイオテロや食品への毒物混入事件なども含まれる。平成一六年に開催された世界公衆衛生研究所長会議でも「健康保護」を達成するべく生活習慣病対策に加えてこの健康危機管理が、行政に求められる「有事」の対応として取り上げられている。新型インフルエンザなどの新興感染症の流行や食品への毒物混入事件などに対する予防や発生後の対応としての健康危機管理が、健康を実現するための中核的な事務として見なされるようになってきているといえよう。
感染症の予防など、医学等学術上の知見が優位に働く業務は保健所には多い。そのため保健所の責任者は原則として医師となっている。バイオテロや新型インフルエンザ、さらには今回の新型コロナウイルス感染症など、原因を特定するのに時間を要する健康危機管理事例については、広域的で専門的な情報を有する健康のための第一線の行政機関である保健所が「最初の対処者」として、医学的な知見を踏まえつつ、迅速・適切に対応することが求められる。そこで「健康危機」発生時の「最初の対処者」を保健所が担うことが期待されることへの反応として、保健所を「健康危機管理センター」として捉え直そうとする試みも登場した。例えば平成一七年一月から活動を開始する地域保健対策検討会(第一回)の冒頭、田中慶司厚生労働省健康局長(当時)は以下のとおり、保健所を「健康危機管理」の「センター」として捉えることの有用性に言及している。
健康危機管理、災害の問題とか、あるいは感染症の事故の問題とか、いろいろなことが出てきたときにやはり健康危機管理という面でセンターとして保健所がこれからいろいろな形で仕事をしていかざるを得ない、どうしてもそういう面で求められている、役割を求められている
(地域保健対策検討会「第一回議事録」二〇〇五年一月二〇日)
同様の発言は、平成一七年六月開催の保健師中央研修会でも確認されており、田中局長(当時)はここでも「保健所は、危機管理をやる健康危機管理センターです、といったほうが分かりやすいのではないか」と自らの見解を示したという。こうした見解は、保健所の役割の明確化につながるものであるとするならば、これは住民の保健所に対する理解を深めることに寄与するといえよう。明治期、日本の衛生行政の確立に寄与した長与専斎(ながよせんさい)が唱えた「官」と「民」の協調に注目し、これを実現しようとするならば、まずは行政の活動を住民が理解する必要が生じてくる。日頃から保健所の活動に住民が関心を持てるような工夫が求められねばならない。そして、住民の健康を実現するためには、医学等に基づいた科学的な根拠が重要となる。これを実現するためには、国からの情報提供に加えて、都道府県に設置される地方衛生研究所との連携も保健所は模索することとなる。
港区では平成一五年「港区健康危機管理対策室設置要領」に基づき「健康危機管理」への取組を見せる。ここでは地震等の自然災害、新型インフルエンザや食中毒の大規模発生、輸入食品の残留農薬や化学物質の混入など、健康危機発生時に迅速かつ的確に対応できることが目指されている。そして医薬品、食中毒、感染症、飲料水その他、何らかの原因により生じる生命、健康の安全を脅かす事態に対して健康被害の発生予防、拡大防止等、健康危機のレベルに応じて以下の対応が求められた。
①情報の収集・状況の把握 ②医療の確保、患者への対応 ③原因究明のための調査 ④区内関係機関との調整、応援体制の整備 ⑤適切で迅速な情報提供 ⑥メンタルケア(PTSD対策) ⑦区施設への自動体外式除細動器(AED)の配備 ⑧普通救命講習会の開催(自動体外式除細動器業務従事者) ⑨行動計画等の対応策の作成
健やかな区民の生活を実現するための保健所等の活動が重要であるとの認識が高まることで、港区では保健所再編整備も平成一六年から開始する。ここではみなと保健所の機能強化を図るとともに、区民が利用しやすく親しみやすい保健所を整備するため、保健所を改築し、組織の再編・整備を進め、その結果、保健所は、健康づくり機能のほか、健康危機管理や情報の収集・分析・提供などの機能を備え、多様な区民のニーズに応えることが期待されるようになった。
健康危機管理の重要性に注目がなされる中、新型インフルエンザ対策は健康危機管理上重要な課題となり、港区では平成二一年四月に発生した豚由来の弱毒性の新型インフルエンザ(A/H1N1)への対応が余儀なくされると、以降も新型インフルエンザ対策を行い、平成二五年四月の「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の施行を受けて新型インフルエンザ等発生に備え、防護服、消毒用材、抗インフルエンザ薬の備蓄および体制の整備に取り組み、平成二六年一一月には「港区新型インフルエンザ等対策行動計画」の策定を終えた。新型インフルエンザ以外でも、平成二六年八月八日にWHO(世界保健機関)が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言したことを踏まえ注目されるようになったエボラ出血熱など、日本で従前脅威となってこなかった感染症への対応も健康危機管理上の課題として求められている。 (小島和貴)