新型コロナウイルス感染症の流行

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平成六年(一九九四)に「地域保健法」が制定されると、従前の保健衛生政策は転換が求められるようになり、「食品衛生法」や「水道法」などを根拠に実施される対物保健と、「母子保健法」や「予防接種法」などを根拠に実施される対人保健に見える保健行政に加えて、健康増進あるいは健康づくりが強調されるようになる。そして保健所の業務のうち「健康危機管理」の重要性が強調されるようにもなった。健康を脅かす「危機」には感染症の流行はもちろんのこと、食中毒や自然災害発生時への対応もここでは想定された。
港区では感染症から区民の命と健康を守る拠点である「みなと保健所」を中心として、区民が健やかで安全に暮らすことができる地域社会を実現するため、港区地域保健福祉計画に基づき、新型インフルエンザの発生、食中毒の大規模発生、輸入食品の残留農薬や化学物質の混入など、区民の生命や健康が脅かされるような健康危機発生時に迅速かつ的確な対応を実現するべく取組を進めてきた。なお、健康危機管理に関する体制整備、新型インフルエンザ対策行動計画等の整備にも併せて取り組んできた。こうした中、区民の生活を襲ったのが新型コロナウイルス感染症の流行であった。新型コロナウイルス感染症の世界的な感染拡大が、人々の命や健康を脅かすとともに、子育て、福祉、地域コミュニティなど多方面に影響を及ぼし、これまでの暮らしを根底から揺るがす大きな危機となった。
令和元年(二〇一九)一二月三一日、世界保健機関から、中国湖北省武漢市において原因不明の肺炎が発生しているとの発表がなされ、その後、この肺炎が新型コロナウイルスによるものであることがわかってきた。翌一月三一日、世界保健機関はこの感染症の被害の拡大を前に「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言した(「警察白書」令和二年版)。
日本でも初の国内感染者が確認されると、感染症の脅威を認めた政府の対応により、チャーター機を利用して中国湖北省からの在留邦人の帰国が始まった。令和二年一月三〇日には内閣総理大臣を本部長として、全ての国務大臣によって構成される「新型コロナウイルス感染症対策本部」が設置された。
二月に入ると新型コロナウイルス感染症が、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(以下、感染症法)における指定感染症とされ、同月二五日には「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」が決定された。三月に入ると新型コロナウイルス感染症は新型インフルエンザ等とみなされるようになり、これを担保するべく新型インフルエンザ等対策特別措置法の一部を改正する法律が成立する。そして四月七日、七都府県に緊急事態宣言が発令され、一六日には全国に拡大された。この頃になると、企業ではリモートワーク、大学等の教育機関では遠隔授業などへの取組が進められていった。
明治期や大正期にみられたコレラやスペイン風邪の流行、昭和二〇年(一九四五)以降も警戒を解くことができなかった結核、昭和五〇年代以降対策が強く求められるようになるエイズ、そして新型インフルエンザなどの感染症に対しては薬物治療やワクチンによる対策が効果的であることが知られるようになる。しかし今回の新型コロナウイルス感染症は、新興感染症であり、流行の予測が困難であったことから、一般の国民はもとより、これへの対策が求められる為政者や官僚、地方公共団体の職員等をも翻弄する事態となったのである。感染症は日本人にとって過去の出来事ではなく、これを克服することが令和の時代にあってもできないことを改めて知らしめるべくなされた警鐘となった。令和二年春以降、日本人一人ひとりが新型コロナウイルス感染症の脅威に直面するようになったことで、感染症に対する注目が特段に高まった。
港区も例にもれず、この新型コロナウイルス感染症の流行への対応が余儀なくされる。令和二年一月一六日に日本国内で初めて新型コロナウイルス感染症患者が確認されると、港区は保健所を中心とした情報共有と対策について確認を行った。一月二八日には新型コロナウイルス感染症が指定感染症となることを受け、港区危機管理対策本部を設置し、施設利用者、事業参加者の感染予防の徹底、区民への最新情報の提供に尽力した。みなと保健所は、人員を大幅に増員し、電話相談から始まり、濃厚接触者の疫学調査、PCR検査、陽性者の病院への搬送まで、総合的に対応するための体制の整備に取り組んだのである。