一九五〇年代の後半になると、妊産婦や乳幼児の死亡率を改善することを目的とする新たな保健サービスも導入された。また、障害のある児童やそのリスクをもつ乳幼児の早期発見と早期対応の必要性が強調されるようになった。これらの保健サービスや障害児への対応は、当初は国民生活の困窮の妊産婦や乳幼児への影響を軽減しようとする施策であった。しかし、やがて経済の高度成長が予測される中で次第に一般化され、若年労働者確保のニーズと結合して昭和三六年に三歳児健診制度が導入される。
東北や関東周辺から京浜地域へ、中国、四国、九州から関西や中京地域へ、集団就職列車が編成され、高度経済成長を支える若年労働者の太平洋ベルト地帯への集中が始まり、逆に日本海側の中国地方においては過疎現象が始まった。
他方、この時期には、社会保険、なかでも健康保険や年金保険の整備が進められた。昭和三二年に厚生省に国民皆保険推進本部が設置され、翌三三年には「国民健康保険法」、同三四年には「国民年金法」が制定された。これによって、日本国民であれば、いずれかのかたちで傷病に対応する健康保険、老後の生活を保障する年金制度に加入するという状況が生みだされ、いわゆる国民皆保険皆年金制度が成立することになった。この社会保険制度の整備拡充は、わが国における福祉国家体制の成立を準備するものであり、同時に社会福祉に対して新たな展開をもたらす重要な契機となった。