戦争が終わったとき、都全体では罹災戸数七万七〇〇〇余戸(全戸数の約50%)、罹災者数約三〇〇万人(全人口の約40%)という大きな被害であった。後に港区を構成することになる芝区では一万五四五九戸、麻布区では九六〇四戸、赤坂区では八三九五戸にのぼる住宅が罹災し、人的には芝区では死亡者二五七人、負傷者二〇三〇人、麻布区では死亡者一八〇人、負傷者一五〇三人、赤坂区では死亡者六一四人、負傷者五五五三人にのぼった。後に港区になる地域は半ば廃墟と化し、人々の多くは住居も衣服も焼失し、日々の食べ物にも事欠き、生活は悲惨を極めた。当時の過酷な被災の象徴に肉親を失うなどした戦災孤児・浮浪児がいる。上野の山をはじめ新宿、渋谷、新橋などの盛り場に集まる浮浪児、引揚孤児の数は約六〇〇〇人にのぼると推定された。港区域はこのような戦後混乱期の渦中で社会福祉の定礎に臨んだといえる。