(B)生活援護

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生活保護の要保護者は激増し、昭和二一年三月時点で、その数は芝区の愛宕地区で四二一世帯、三田地区で三二八世帯、高輪地区で五二九世帯、計一二七八世帯、三九九〇人に達した。さらに、要保護状態にあった人々の数は、四六九六世帯、一万二四四一人と推定されている。食糧事情の面では、昭和二一年は戦争終結時よりさらに食糧難が深刻化していた。
福祉事務所の前身である民生事務所は昭和二二年に港区愛宕民生事務所、港区三田民生事務所、港区高輪民生事務所、港区青山民生事務所、港区赤坂民生事務所、港区麻布民生事務所の六事務所が開設された。
絶対的な貧困が広がる中、生活の基盤や資産などすべてを失って帰国した引揚者は特に過酷な状況にあり、引揚援護の策が講じられた。区内にも援護の拠点が複数設置された。都内九か所の内の一つである引揚者一時宿泊所高輪寮(定員五〇人)をはじめ、昭和二〇年一二月には赤坂寮・青山寮・三田寮が、同二一年一一月には広尾寮、同年一二月に盛岡寮が開設された。戦争終了から二年になる昭和二二年の段階でも五月に日ケ窪寮が開設されている。
生活困窮者への対応として住居の提供、更生事業の提供、資金貸付等が行われ、経済的自立を確保するための施策が構築された。時系列で列挙すると、昭和二三年四月、三田豊岡町芝社会事業協会の建物を利用して都が共同作業所を設立し、区へ運営委託を行った。同年には更生事業施設として日ケ窪寮、青山寮等で印刷事業、ミシン作業等を開始した。昭和二四年三月には白金民生館構内に新築した建物に共同作業所を移転している。同年八月「東京都生業資金貸付条例」ができ、生業資金貸付を開始した。同事務の取り扱いは区民生課が所管することとなった。同年には民生食堂の指定も行われるようになった。
昭和二五年一月、東京都芝洋裁学校が財団法人東京都勤労補導協会から都へ移管された。同校には生活困窮者への授業料減免制度があった。なお同年一〇月、白金共同作業所は都から区へ移管された。
また、社会福祉事業法の成立により、民生事務所から福祉事務所への転換がなされた。昭和二六年一〇月、東京都港福祉事務所が港区役所赤坂支所に設置され、民生館・民生事務所は廃止された。昭和二八年、港福祉事務所は麻布南日ケ窪町にできた新庁舎へ移転することとなった。生業資金貸付は同年に都から区へ移管され、翌年に「東京都港区生業資金貸付条例」を公布し、実施することとなった。
昭和三四年三月、港区には三二二世帯、七〇五人の水上生活者がいることが明らかとなった。
国では、全国の民生委員たちによる世帯更生運動が展開され、低所得世帯に対し生業費を低金利または無利子で貸し付ける世帯更生資金(現在の生活福祉資金)貸付制度を昭和三〇年に創設した。東京都では実施主体である東京都社会福祉協議会に貸付金と貸付事務費の補助を開始した。その後、高齢者身体障害者等に対象を拡大するとともに、貸付資金の種類も拡充した。