(C)子どもの福祉

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戦争の大きな被害者である子どものための施設が民間によって複数開設された。昭和二一年一月には宗教法人生長の家が神の国寮(赤坂檜町)を戦災孤児、引揚孤児の養護を目的として開設し、同年九月には水上警察署第五台場見張所を利用して浮浪児収容施設東水園を開設した。翌二二年一月には曹洞宗がルンビニ園(芝新堀町)を開設した。
区内には日本の社会福祉史に照らして先駆的な子どもの施設が戦前からあった。慶福育児会乳児院(麻布広尾町)と東京都済生会中央病院附属乳児院(芝赤羽町)である。
慶福育児会は、明治二四年(一八九一)に発足した婦人共立育児会を母体とし、大正一〇年(一九二一)年に乳児保育を始め、同一二年に関東大震災で九段下から現在の南麻布へ移転してきた。昭和二八年には恩賜財団慶福会と合併し、恩賜財団慶福育児会となった。戦後の食糧難の窮状ではアジア救済連盟(ララ)の救援物資に救われたと同会の記念誌は記載している。また、ララ救援物資終了後は昭和三二年までケア物資の援助を受けてもいる。このような海外からの救援にみるように、同施設は重要な存在と捉えられ、各方面からの注目と支援があったといえる。
東京都済生会中央病院附属乳児院は、大正五年に開設された病院に同一二年の関東大震災時に急設されたことが始まりである。済生会医務主管だった北里柴三郎が震災孤児の救護のために始めた施設である。戦後は捨て子が増え、玄関入口に「捨て子台」を設置するなどの実践を行った。同施設も乳児に欠かせないミルクをララ救援物資で辛うじてまかなったことを明らかにしており、戦後混乱期の運営の苦心がうかがえる。
その後、児童福祉法の施行により養護施設の認可を受けるなど徐々に運営基盤が整えられていった。昭和二三年六月、児童福祉法により生長の家神の国寮が養護施設の認可を受けたことをはじめ、各施設は順次、認可を受けていった。なお水上警察署に設置されていた浮浪児収容施設東水園も同年に児童福祉法に基づいて移管され戦災者救護会児童施設東京園となったが、翌二四年八月のキャサリン台風で損壊し、それからまもなく廃止された。同年、救世軍世光寮(麻布広尾町)も少年保護法による施設から児童福祉法による養護施設となった。同年三月には同施設に天皇・皇后両陛下が視察に訪れている。
昭和二二~二四年はいわゆる第一次ベビーブームといわれる時期である。保育所は都と区によって段階的に開所された。昭和五年に開設された東京市白金三光町市民館乳幼児保育部が戦時託児所および戦争末期の事業中止を経て、同二四年八月に都立白金保育園としてあらためて開所し、区が運営することとなった。翌年一一月には後に都立港簡易保育所となる都立天幕託児所が麻布飯倉町に開設され、区が運営することとなった。続いて昭和二六年一一月に区立麻布保育園(麻布宮村町)、同三一年一一月に愛星保育園(芝二本榎)、同三四年六月に区立青山簡易保育所(赤坂青山北町)が順次、開設された。
子どもの福祉をめぐる主要な専門機関に児童相談所がある。昭和二三年、港区の児童福祉は新宿区に所在する中央児童相談所が取り扱うことになった。その運用として、中央児童相談所から二人の児童福祉司が港福祉事務所へ派遣され、常駐するという体制がとられた。
児童福祉法による保母養成施設の都立高等保母学院が昭和二三年一一月に墨田区から港区の麻布笄(こうがい)町へ新築移転する動きもあった。また、中央区築地の料亭「とんぼ」の女主人佐川ことさんの遺産を基礎として芝公園内に児童館を児童福祉法による厚生施設として昭和二四年に開設するという出来事もあった。
戦後一〇年近くになると、児童福祉法に留まらない港区独自の取組が徐々に生まれてくる。昭和二九年に生活困窮家庭の学童を対象として港区社会福祉協議会(以下、港社協)が中心となり学用品を贈呈する取組が始まった。さらに同年には母子家庭を明るくする運動を港社協が中心となり開始した。昭和三〇年一〇月には「港区母子世帯の実態調査」を港社協と東京都港福祉事務所とで実施している。このように母子世帯等の生活困難を捉える取組が福祉事務所と港社協との協働で行われるなど、社会福祉における重要なアプローチがなされた。