敗戦によるGHQの日本の社会福祉への関与が港区の障害者福祉の運営に影響を与えていた。戦中に行われていた傷痍軍人に対する軍事援護の恩給が打ち切られたこともその一つである。
昭和二五年一月には、戦中に財団法人東京都勤労補導協会に委託されていた東京都芝授産場がGHQの指導等を受けて都の直営となった。その後、昭和三二年四月、授産場の組織再編により東京芝授産事業所が設置され、芝・荏原両授産場と品川・大森両簡易内職斡旋所を管理することとなった。区内には三田授産場、豊岡授産場、家庭授産奨励会も設置されていた。昭和三四年に肢体不自由児愛の会から「遊び場」建設の請願が提出され、建設が決定したことは画期的なことであった。定礎期終盤に障害児の遊び場建設に向けたソーシャルアクションが実を結んだことは、日本で障害児の福祉が十分に確立しているとはいえない社会的環境下にあって、港区は積極的な姿勢をもっていたとみなすことができる。