この時期の地域福祉は、生活困窮者の問題に焦点をあてている。税金による公的扶助とは異なる民間の寄付による支援活動である。福祉を目的としたたすけあい運動、共同募金が全国規模で組織化され実現し、港区においても展開された。
第一回国民たすけあい運動・共同募金は、昭和二二年一一~一二月に実施された。その募金額は、五億九二九六万八〇〇〇円である。戦後混乱期の生活困窮から多くの区民がまだ抜け出せていない状況の中で、子どもから高齢者まで幅広い層が参加と協力を行うこの募金運動は、コミュニティチェストとして重要な意義を持っていた。昭和二六年には東京都共同募金会のもと、芝・麻布・赤坂・高輪地区に共同募金協力会を組織し、よりシステマティックな募金活動の運営がなされるよう、基盤づくりを行った。
地区の福祉拠点とみなすことのできる民生館は、占領下にあっても昭和二四年に白金、麻布に開設された。地域福祉を意識したものではなかったとしても、住民にとっての拠点を確保する施策は、その後の港区の様々な施策展開と軌を一にする独自性の現れといえよう。
終戦当時、方面委員の委嘱は芝区七七人、麻布区三七人、赤坂区二九人になされていたが、戦前・戦中の方面委員制度が民生委員制度として再生されたことに伴い、新たに委嘱されることになった。昭和二六年には一一〇人、昭和三四年には九五人が委嘱されている。
昭和二八年一〇月、任意団体として港区社会福祉協議会(港社協)が設立された。設立当初は麻布南日ケ窪町に所在した港福祉事務所で福祉事務所職員が事務局を兼務していた。
地域福祉を進める中核組織である港社協が設立されたことをはじめ、ニーズキャッチとその対応のための人づくり、財源づくり、組織づくり、拠点づくりなど、その後の港区の地域福祉の定礎がこの時期に確実につくられたといえる。