しかし、欧米、そしてわが国を含む先進資本主義諸国における福祉国家発展の頂点は一九七〇年代の半ばであった。一九七〇年代末には、福祉国家政策は一転して、経済の発展を阻害する最大の要因として批判の対象に転化していった。
福祉国家体制の構築に先鞭をつけたイギリスはもとより、一躍戦後の経済復興を成し遂げ福祉国家政策を推進してきた西ドイツ、さらには「セミ福祉国家」「いやいやながらの福祉国家」とも呼ばれたアメリカにおいても、一九六〇年代末以来世界的な経済不況が強まる中で、福祉国家政策の推進は国家財政にとって、ひいては国民にとっての大きな負担となってきたのみならず、国民の国家への依存心を高め、自助努力を阻害する要因として批判の対象とみなされることになった。社会保障・社会福祉関係予算の削減、ウエルフェアカットが推進されるとともに、経済的自由の回復、国民負担の軽減、生活に対する自己責任を強調する新自由主義の思潮が拡大し、国民の中に浸透していった。
このような福祉国家政策の転換は、わが国においても推進された。昭和五四年に策定された政府の「新経済社会7カ年計画」は、イギリスや西ドイツにみられる経済不況を「高福祉高負担」を求める福祉国家政策に起因する「イギリス病」「西ドイツ病」とみなし、わが国はそのような前車の轍に陥ることを避けるため、「福祉の含み資産」である家族・親族・友人や地域社会による助けあい、企業福利を活用することによって「中福祉中負担」の日本型福祉社会の実現を目指すとした。