基本構想に「児童の健全な発達の保障をはかること」として「児童の健全な育成を期するため、生活環境の整備をはかる」「児童の生活を豊かにし、児童相互の交流をはかる」ことが位置付けられた。児童福祉の拡充に向けて児童館・保育園の整備、学童クラブの整備、学校開放の拡充など様々な施策が展開された。昭和四〇年には港区児童福祉法施行細則を設けるなど、体系的な児童福祉施策の構築と遂行が図られた。
子育て世帯への経済的支援としては、昭和三七年一月に児童扶養手当の給付を開始した。昭和四六年一〇月には「港区児童育成手当条例」を定めた。港社協が交通遺児援助事業を開始したのは昭和五〇年である。
保育施設の動向としては、昭和三六年四月に都立保育園がすべて特別区へ移管されたことが大きい。昭和三九年には私立心光保育園が港区へ移管され、区立飯倉保育園となった。昭和四〇年代に女性の社会進出が進んだことなどを背景として、保育園・児童館の整備が進んだ。
一方、この時期、老朽化による建物の取り壊し等により、区内にあった複数の養護施設が区外へ移転した。昭和三五年に救世軍世光寮が杉並区へ、ルンビニ園が富山市へ移転し、同四一年に生長の家神の国寮が国立市へ移転した。恩賜財団慶福育児会が目黒乳児院と合併したのは昭和四七年であった。
その他、昭和三〇年代は子どもの生活環境の改善を図るため、遊び場の確保が重要な課題となっており、児童遊園や公園などの整備が行われた。