基本構想では、障害者の多様な要求を実現する社会資源の不足と社会の中で積極的に生きる手がかりをつかむことができる保障が必要という課題認識がなされ、「地域住民の一員としての社会生活が可能な条件の整備をはかる」として「心身障害者の発生を未然に防止し、また早期に発見する健康管理体制の確立をはかる」「心身障害者の治療と社会復帰の援助をはかる」「心身障害者のための施設の整備をはかる」ことが位置付けられた。当時の社会の障害者の捉え方が反映されている一方、「地域住民の一員として社会生活が可能な条件整備をはかる」という考え方は後に日本でも紹介され、広がるノーマライゼーションの考え方に通じる先取的なものだといえる。
昭和四〇年に福祉事務所が都から区へ移管され、区独自の施策が推進されるようになった。肢体不自由児愛の会から請願採択され整備を進めていた区立肢体不自由児通園施設「のぞみの家」が昭和四一年に開設されたことはその象徴の一つである。開設当初は肢体不自由児の遊び場であったが、その後、療養訓練を実施し、精神発達遅延児(当時の名称)も受け入れるなどの展開をみせ、昭和四五年には心身障害児通園施設となったことは特筆される。
さらに在宅障害者の支援として、寝具乾燥等消毒サービス(昭和四八年)、タクシー利用券給付事業(同五三年)、福祉電話、外出介助者派遣など、日常生活に必要と考えられるサービスが開始された。港社協も障害福祉に携わり、昭和四八年に心身障害者(児)激励ボウリング大会を、同五三年に車いす貸出事業を開始した。
また、バリアフリーの取組が徐々に始まり、歩車道の段差改良や点字ブロックの整備が段階的に行われるようになった。