〔第一節 戦後教育改革の進展〕

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昭和二〇年(一九四五)八月、ポツダム宣言を受諾したわが国は、終戦を迎えた。これに伴い、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の支配下におかれ、教育文化は民間情報教育局(CIE)が担当することとなった。本節では終戦処理と戦前体制の解体と、戦後の新教育制度の礎となる制度設計がなされた期間を対象として港区の教育行政について述べていくこととする。
日本政府の戦後教育の方針は、同年九月一五日文部省による「新日本建設ノ教育方針」に示された。「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スル」ものとされた。
一方、GHQは昭和二〇年、いわゆる教育に関する四大指令を相次いで発し、教育改革に着手していった。一〇月二二日の「日本教育制度ニ対スル管理政策」では、教育内容、教職員、および教科目・教材の検討・改訂についての包括的な指示と、文部省に総司令部との連絡機関の設置と報告義務を課した。これに沿う形で、一〇月三〇日に「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」では軍国主義的、極端な国家主義思想を持つ者の教職からの排除について指示し、次いで一二月一五日に発せられた「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」では、信教の自由を保障し、国家神道の解体により国家と宗教の分離や政教分離の実現を示した。一二月三一日の「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」では、軍国主義的・国家主義的思想を教育から排除せんとしたもので、修身、日本歴史、地理の授業停止と教科書・参考書の回収などを命じている。
やがてCIEを中心に米国からの教育使節団の派遣が計画され、昭和二一年三月に二七人の使節が来日し、日本側には使節団への協力が求められ教育家委員会を設置した。およそ一か月に及ぶ調査の結果は、報告書にまとめられている。その報告書によると、戦前の教育の問題点を指摘しつつ、教育における民主主義や自由主義的側面、教育の機会均等、教育方法などの画一化の排除、子どもたちや教員の自主性を涵養するなどの提言がなされた。学校制度としては、六・三・三制、なかでも九年間の無償の義務教育と男女共学が強調され、教育行政では分権的な公選制の教育委員会を基盤とした新制度の導入、新しい社会を目指し成人教育の充実のために国語改革などを勧告している。GHQは、この勧告に基づいた改革実現のための機関の設置を指令した(使節団は昭和二五年八月に再来日し、勧告の効果検証を行っている)。
この指令に基づきわが国では日本側の「教育家委員会」を母体とした合議制機関として、内閣に「教育刷新委員会」(のち「教育刷新審議会」)を置いた。ここでの議論を基盤として、昭和二二年三月三一日、「教育基本法」と「学校教育法」が公布され、教育に関する基盤が示された。教育基本法では、教育の機会均等(第三条)や義務教育の年限を九年とすること(第四条)、男女共学(第五条)などが定められた。また教育基本法第一〇条で、教育の直接責任制をうたっており、翌年「教育委員会法」によって戦後教育行政の根幹をなす教育委員会が、都道府県、市町村に設置された。さらに学校教育法では、義務教育の期間として小学校六年間、中学校三年間の九年間を定め、いわゆる六・三制が導入された。こうして、終戦後二年の間に、わが国の戦後教育の基盤が築かれていったのである。