港区における戦災と学校再開

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【区内の罹災状況】 文部省は終戦後、教育の平時復帰を促した。昭和二〇年(一九四五)八月二四日には学校教練・戦時体練などの法令を廃止し、二八日には九月中旬までに全学校授業再開の指示を出した。しかし戦災や学童疎開などによって、通常の授業再開には、相当の時間を要することとなった。港区内では、当時の国民学校二九校中一〇校が戦禍を被り、芝・芝浦・御田・神応・飯倉・東町・三河台・赤坂・青南の九校は全焼し、飯倉・東町・三河台の三校は昭和二一年三月三一日付で閉校とされた(その後、飯倉小学校は昭和二八年四月校舎を新設開校、東町小学校は同三〇年四月に本村小学校の校舎にて開校、七月に校舎一部竣工)。青山国民学校では校舎の木造部分が焼失していた。
当時の校舎は、児童が疎開をしていたため、軍隊の兵舎や役所として利用されることが多かった。戦災で周辺地域が焼失した際には、被災住民の避難所として、また廃材の置き場になるなど、授業再開までには相当の労苦を伴うこととなった。一方、疎開先の児童は、終戦後も東京都が疎開先での教育を継続することを表明するなどしたが、保護者は児童の引取を望み、都は一〇月から帰京させる計画を立てた。港区内各校では、一〇月頃から帰京が目立つようになった。ただ、再疎開したり(桜田・桜川・南海・芝浦国民学校)、昭和二一年三月まで疎開地に残っていたりした学校もあった(芝・高輪台・麻布・乃木・青南国民学校)。青南国民学校では、昭和二〇年九月一日に出席した児童は、全校で二四人であったようで、港区内各校では、疎開児童が戻ってから学級編制し、授業を開始したところが多かった。

図 14-1-1-1 焼け残った学校(氷川国民学校)

『港区教育史』下巻(1987)から転載


【港区教育の再開】 学校教育の再開に伴い、GHQによる四大指令に基づき、港区内の学校でもいわゆる「教職追放」が行われたり、教科書の回収や墨塗りが行われたりしたほか、信教の自由を確保するために校内奉安殿の撤去などが行われた。さらに文部省が示した「新教育指針」に基づき、区内各学校では、その読み合わせを行った様子が記録されている。これに加え、文部省が一〇月九日に示した男女共学実施の指示により、男女混合の学級編制が行われた。
しかし、戦禍により校舎が焼失した区内学校の児童は、他校に間借りして授業を受けることとなり、教室の不足などから四年生以下は午前と午後の二部授業を行ったり、学区を越えた通学を余儀なくされたりしたため、校舎再建は焦眉の急であった。「六・三制」義務教育の展開により、国民学校は小学校の名称に復され、新制中学校が誕生し、学校施設が東京都から移譲されたことから、小中学校の施設整備は港区教育行政の一大事業となった。港区では昭和二二年八月の芝浦小学校の校舎再建を嚆矢として、同三三年九月の青南小学校を最後にすべての小学校の校舎再建を終えた(昭和二五年には二部授業は解消されていたという。表14-1-1-1)。ただし、木造校舎の鉄筋化は、昭和三〇年代に改築が始まり、昭和四八年度に区内全小学校が耐火不燃構造の校舎となっている。募金活動など地域住民のひとかたならぬ協力と尽力によって校舎の整備を終えると、次にプールや体育館などの建築が進められた。

表14-1-1-1 戦災校舎の復興

『新修港区史』(1979)から転載


戦後の区内では、公園は人々の宿泊所となるなど、安心安全に子どもたちが遊ぶスペースが極めて乏しく、校庭などで遊ぶことを余儀なくされた。復興後も、区内の都市化が進み、オリンピック東京大会に向けた道路整備が進むなど、子どもたちの遊び場は憂慮すべき状態にあった。このため、港区では児童遊園を整備することで、子どもたちが安心安全に遊ぶことができるよう整えていった。かかる背景から、子どもたちの体位向上、健康増進を図るために、体育館は昭和三五年度に、プールについては、同三六年度以降未設置校への整備方針が示され、同四二年に至って全校に設置されている。