新制中学校と新教育

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【新制中学校の誕生と港区】 昭和二二年の学校教育法の制定により、学校制度が一つの法律によって規定され、教育の民主化が志向された。従来、国民学校の八年(実質的には六年)間を義務教育とし、その先は中学校や高等女学校、師範学校など「複線型」の学校体系となっていたが、「単線型」の「六・三・三・四制」が採られ、小学校六年、中学校三年間の「六・三制」の九年間が義務教育とされた。教育の機会均等を目指す戦後日本の教育制度は、中学校に義務化、全日化、男女共学化、独立の校舎設置を求めたが、終戦後の混乱と窮乏の状況の最中でもあり、設置者である区市町村は全国的に対応に苦慮した。港区においても、新制中学校の建設は大きな混乱を引き起こしていた。
昭和二二年三月五日、東京都の教育刷新委員会は「新学制実施に関する答申」を示し、港区でもこれに対応した新制中学校の設置を急ぐこととなった。この答申に基づき、一校一学区制の設定、私立学校に対する義務教育の委託、教員人事等が行われることとなった。ところが、戦後の混乱期で教職員がそろわない学校もあり、四月一日に開校できた学校は港中学校だけであった。表14-1-1-2にもあるように、多くの中学校が、国民学校や旧制中学校などの旧校舎を活用したり、小学校に間借りしたりするなど、独立した校舎を有したのは、愛宕中学校のみであった。小学校校舎の再建の際と同じく、地域住民の協力と尽力によって四月二九日に開校の運びとなった。この後も引き続き独立校舎建設のために、土地取得と建築の努力は行われ、城南中学校は都有地の移譲、高松中学校・赤坂中学校・青山中学校は国有地の払い下げを受けて校舎が完成している。こうした中、教室不足等により学校によっては区内私立学校のうち、正則(せいそく)中学校他四校に生徒を委託して就学機会を確保している。戦後の混乱期の中、義務教育委託に惜しみない協力の姿勢をみせてくれた港区内の私立学校や保護者の善意を忘れてはいけない。

表14-1-1-2 新制中学校建設の経過(昭和34年現在)

『新修港区史』(1979)から転載、一部改変


【六・三制の展開と港区教育研究会】 六・三制が導入された義務教育課程は、「新学制」とも呼ばれ、その教育内容は「新教育」と称された。小学校における教育内容は、国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育および自由研究が基準とされ、教育課程・教科内容については、学習指導要領の基準によるものとなった。指導計画は各校が独自に編成することとなったが、各校で難儀したのが社会科の指導計画であった。「従来の修身・公民・地理・歴史を融合した教科」ではあるが、「社会生活についての良識と性格とを養う」ことが目的とされた。
桜田小学校では、従前から社会科教育の研究に注力していたこともあって、昭和二一年末に都内の実験校として指定されていた。経験を通じて学ぶ、アメリカ型の教育が実践され、昭和二二年一月にはわが国初の社会科研究授業が実施された。桜田小学校での指導計画と実践は、「桜田プラン」として文部省や全国からの視察を受け入れるなどして注目された。高輪台小学校では、健康教育の研究実践が進められ、昭和三四年一一月には全日本健康優良学校として表彰されているほか、愛宕中学校のホームルームシステムなど、施設面でなく質的な面でも充実した港区の教育の一側面を表している。
また、区立の小中学校および幼稚園の教職員は、昭和二三年九月に港区教育研究会を組織し、年一回研究発表会を開催してその成果を指導の現場に還元している。
【戦後の学校給食】 昭和二一年一二月一一日、文部省・厚生省・農林省の三次官連名による通達、「学校給食実施の普及奨励について」により、戦後の学校給食が開始された。戦後の食糧難の中で、多くの国民が栄養失調の状態にある中で、発育期にある子どもたちの体位向上のためにも画期的なものであったといえる。戦前期に、一部の学校で欠食児童や貧困家庭のために始められた学校給食制度であり、戦後直後は欠食児童対策の側面が大きかったものの、やがて教育の一環として位置付けられるようになった。
昭和二一年一二月にGHQから給食物資の寄贈を受け、脱脂粉乳(スキムミルク)の給食が開始されたほか、昭和二二年にはアジア救済連盟(ララ)による食料の寄贈や旧軍用缶詰の放出により週二回の給食が実施された。その後パン副食が加わり、昭和二五年に占領軍の小麦粉の放出を機会として本格的な給食が始まったが、これに伴いボイラー室や空き教室を利用していたものを改築し、給食室としたほか、食器などの備品も整備されていった。
しかし昭和二六年のサンフランシスコ講和条約締結により、占領地域救済資金(ガリオア)が打ち切られることとなり、学校給食の継続が危ぶまれた。昭和二九年に「学校給食法」が制定され、地方交付税措置や補助金による全児童への完全給食が可能となった。港区内では昭和二七年に完全給食は実施されていたが、学校単位のPTA寄付による設備整備など、保護者や地域住民の協力によって子どもたちの給食制度が整備されていったことは記憶に留める必要がある。
【戦後の学校保健】 昭和二一年二月一日文部省は「学校衛生刷新ニ関スル件」を発して、戦前に「学校衛生」と捉えられ疾病・傷害の予防と処置に重きが置かれていたものを、戦後「学校保健」として「健康」を教育として捉える方針に改められた。このような方針転換には、米国教育使節団の勧告による部分も大きい。戦後の混乱期にあって、子どもたちには結核の蔓延のみならず、疥癬(かいせん)・頭虱(あたまじらみ)・トラコーマの流行が顕著に見られた。港区では、学校ごとに専門医や薬剤師を委嘱・配置して、予防接種や保健行事の実施に協力を求めた。
また、昭和二四年の「教育職員免許法」により、養護訓導、養護婦は養護教諭、養護助教諭として名称および資格が改められ、配置されている。さらに学校教育法で、保健管理を学校教育活動の基礎として位置付けられたことから、昭和二四年には保健教育として従来の体育科の名称が保健体育科とされ、教科として保健の学習が行われるようになった。
【幼稚園の再開】 明治一〇年代後半、幼児教育への関心が高まり、学齢に満たない児童を小学校に入学させていたが、明治一七年(一八八四)に文部省は各府県に達して、幼稚園による「保育」を方向付けた。これに前後して港区でも、幼稚園の設置が相次いだが、とりわけ大正一五年(一九二六)の幼稚園令の公布が幼稚園開園に拍車をかけた。
しかし、戦時体制をむかえると、幼稚園での教育を行う状況ではなくなり、東京都から各区に示された「公私立幼稚園非常措置ニ関スル件」によって休園を余儀なくされていた。青山国民学校附属幼稚園・赤坂区中之町幼稚園は戦災によって休園し、園舎のあるものは軍需工場事務所に転用され、戦時託児所となったものもあるが、昭和二〇年四月にすべて閉鎖されていた。
戦後港区の幼稚園が再開されたのは、昭和二一年になってからであった。港区内の公立幼稚園としては、西桜・麻布・南山・中之町の四園が存在したが、いずれも設置者は東京都であった。しかし、小学校の復興や新制中学校の設置などもあり、戦後の財政状況厳しい折から、幼稚園の再開は困難を極め、このため受益者負担(「経費自給自足」)による再開となった園もあったようである。
昭和二二年の「教育基本法」と「学校教育法」の制定により、幼稚園は学校の一つとして、教育体系の一環と位置付けられた。港区では前述の四幼稚園が東京都から港区に移管され、港区立幼稚園として発足することとなった。昭和二二年以降、二九年までの間、私立幼稚園は二二園と急増したが、区立幼稚園は昭和三六年に桜田幼稚園が開園するまで四園のまま増設されることはなかった。
なお、幼稚園が学校教育法で教育機関と位置付けられた一方、戦前から法的に位置付けられてこなかったのが保育所であった。大正年間に都市部を中心に増加した保育所であるが、貧困層の幼児や、就労が増加した女性の幼児を預かる施設として需要が急増していた。戦後、保育所は昭和二二年の「児童福祉法」制定によって、児童福祉施設として規定されている。児童福祉の一環ではあるが、幼稚園とならぶ幼児教育を担う施設として、本項で言及しておきたい。
港区では、昭和二四年に都立白金保育園が設置され、翌年港天幕託児所(のち港簡易保育所)が開園された他、私立の青山保育園、土筆保育園、みなと保育園、浜松町保育園が開設されていた。昭和二六年、初の区立保育園である麻布保育園が開園している。