港区教育委員会の発足

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【公選制の教育委員会】 昭和二一年八月、文部省は教育行政を一般行政から自立させることを狙い、「教育行政刷新要綱案」を示した。同年三月に来日した、米国からの教育使節団の勧告への対応であった。要綱案では、全国を九つの学区に分け学区庁を設置し、学校教育と社会教育を担当する案が示されたが、GHQの承認が得られずに再検討が求められた。翌年地方教育行政法案を定めたが廃案となり、その後文部省がCIEと折衝を繰り返し、教育行政の民主化、地方分権、自主性確保(一般行政からの独立)を根本理念とした教育委員会法案が国会に上程され、昭和二三年七月に「教育委員会法」が公布されるに至った。「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行なうため」(教育委員会法第一条)に教育委員会が設置されるに至った。
【港区教育委員会の発足】 教育委員会法によって都道府県・市町村に教育委員会が設置されることとなった。都道府県では七人の委員を置き、うち一人は議会から選出され、六人の委員は選挙によって選出されることとなった。一〇月五日に初の教育委員選挙が実施され、一一月一日東京都教育委員会が設置された。東京都教育委員会委員の選挙は投票率28・7%と全国最低であったという。
区市町村の教育委員会については、諸事情から昭和二七年まで教育委員の選挙が延期された。港区教育委員会委員選挙が実施されたのは同年一〇月五日であり、公選委員四人(投票率は23%と低調であった。また昭和三〇年までの選挙は無投票信任)と議会から選出された委員の合計五人が教育委員に選任され、一一月一〇日に初の教育委員会が開かれた。教育委員会は合議制の執行機関で、その発足に合わせ、港区では教育委員会事務局が補助機関として設置された。教育長(教育専門職)、次長のもとに、庶務課・学務課・社会教育課が置かれた。
【教育行政と財政】 戦後の復興や校舎再建、新制中学校の新設など、全国的に見ても戦後の教育関係予算は膨大なものとなっていた。地方の教育費が歳出総額に占める割合は、戦前を通して20%近くであったが、昭和二〇年代前半は30%近くを占めている。港区でも、その割合は高くなっており、昭和二四年に37・3%、同二七年34・6%、同三〇年41・2%である。教育委員会が設置された昭和二七年度の教育関係予算は、区歳出総額の割合で首位とほぼ同じになっており、港区では教育行政に最も多くの予算を割いてきている。
これに加え、東京都が特別区に委任する執行委任額も大きくあった。都執行予算、港区予算のいずれも、小学校費、中学校費、学校営繕費などへの支出が大きい。校舎の新築や、雨天体操場兼講堂、図書館の整備、理科室の整備などのほか、青年学級の開設等に充てられている。やがて昭和二七年度には教職員給与費について、義務教育費国庫負担が復活したほか、学校施設整備への国庫負担が法定されたことにより、翌年度から実施されている。
昭和二九年には「学校図書館法」が施行され、学校図書館は重要な学校施設として位置付けられたが、その整備充実には各校のPTAも積極的に協力した。また、同年整備された「理科教育振興法」による予算措置は、高価なものが多い理科機材の充実を図るために大きな役割を果たした。
【夏季施設の充実】 戦前に、港区の前身である旧芝区・麻布区・赤坂区は、それぞれ夏季施設を整備していた。旧麻布区教育会が所有していた箱根ニコニコ学園は、昭和二九年に港区が借り受け、区立ニコニコ高原学園を開設した。やがて昭和三一年には、港区に寄付されている。夏季林間学園として昭和二四年から活用されており、同三〇年からは、小学校専用施設として利用されていた。
静岡県沼津市我入道浜に設けられた沼津臨海学園は、旧赤坂区から移管されたものである。昭和二三年度から区内の各小学校と中学校が活用していたが、同二六年からは区立養護学園専用の施設となった。沼津養護学園は、病弱児の施設として設置された。小学校三年生以上の児童が対象となり、偏食や喘息(ぜんそく)の児童が大半を占めていたという。