「社会教育」の呼称は、大正時代に「通俗教育」から改められたが、戦前期の社会教育は、もっぱら団体を中心として教化的な性格を帯びたものであった。挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を掲げて国民精神総動員のための社会教育が進められた。港区においても、国策を国民に浸透させるべく、教化のために団体が育成されるなど組織化が進められ、昭和一六年(一九四一)に青年団、女子青年団、少年団などが青少年団に統一されたほか、町会・隣組・婦人会などを通じた教化活動が展開された。
戦後になり、民主主義的な教育改革の中で、社会教育は、人々の自発的な学習活動を基盤にする活動を基礎に展開されることとなった。終戦直後に文部省が示した「新日本建設ノ教育方針」でも、項目の一つに社会教育が掲げられたが、「益々国体ノ護持ニ努ムル」といった表現が見られるなど、戦前教育との決別は判然としていなかった。昭和二〇年一〇月に文部省に社会教育局が再置され、一一月には「社会教育ノ振興ニ関スル件」を発し、「新日本ノ建設」のために「国民資質ノ向上」が求められ、「社会教育ノ活発ナル活動」が要請されているとして活動を進めていった。一方、米国教育使節団による第一次報告書においても、社会教育の重要性を指摘した。
かくして日本国憲法に基づく民主的で文化的な国家建設のために、昭和二二年三月三一日教育基本法が制定され、第七条に社会教育が規定された。さらに昭和二四年六月には「学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む)」を規定した社会教育法が制定され、関係法として図書館法、文化財保護法、スポーツ振興法、青年学級振興法、同和対策事業特別措置法が整備された。