戦後社会体育の振興

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文部省が昭和二一年八月に示した「社会体育実施ニ関スル件」は、社会体育再興の起点となった。港区では、旧芝・麻布・赤坂の三区体育連盟が一本化され、昭和二三年四月港区体育会(後の港区体育協会)が発足している。区市町村対抗の憲法記念都民体育大会、昭和三一年大会で、男子が総合優勝を果たしたことは、港区の体育活動が極めて活発に展開されたことを雄弁に物語っている。これらの活動を主導した港区体育会は、昭和二五年第五回国民体育大会において体育優良団体として文部大臣から、同二九年財団法人レクリエーション協会から優良団体として同協会総裁から、それぞれ表彰を受けている。
残念ながら、社会体育への区民の関心が高まりつつあるなかで、昭和二〇年代は学校の再建などのために財源が限られており、小中学校の施設を活用するなどして対応せざるを得なかった。こうした中でも、赤坂地区では地域住民が「赤坂総合運動場建設協力会」を組織し、地域住民が資金や労力を提供することで、昭和二三年に赤坂野球場(赤坂青山南町)が設置され、同二五年には施設が区に移管、同二九年まで供用されたという(昭和三二年青山運動場に移転)。昭和二五年に開設された麻布盛岡町グランドもまた、地域住民の協力によって開設され、同五〇年に区に移管されている。   (進邦徹夫)