昭和三〇年(一九五五)前後から日本は順調な経済成長段階に入り、同三一年の『経済白書』は「もはや戦後ではない」として新時代の到来を示唆した。港区においても高度経済成長の影響は顕著であり、昭和三三年の東京タワーの完成を契機として、同三九年のオリンピック東京大会開催前後に、区内各地で開発が進められるようになってきた。戦後のベビーブームによる児童数の急増が見られたこの時期、港区にあっては、芝浦地区では開発による人口増が見られたが、新橋地区の北部では都市化により夜間人口の減少がみられるようになり、児童数も急激に減少していったことから、学校統廃合を検討せざるを得なくなった時期でもある。さらに学校周辺の環境の変化に伴い、昭和四九年にはすべての区立小・中学校の保健室に空気清浄機と冷暖房装置が設置されたほか、騒音の激しい一部学校には防音が措置され、冷房装置が設置されている。
昭和四〇年代になると、科学技術の著しい進歩を背景として同四三年に学習指導要領の改訂が行われた。この改訂は知識偏重と指摘され、昭和五二年に小中高の教育に一貫性をもたせようとし、学校生活における「ゆとりと充実」を図ろうとしたものであり、自ら考え主体的に行動できる児童生徒の育成を目指して行われた。しかし教育の量的拡大は、児童生徒のあり方にも大きな変化をもたらし、校内暴力や、いじめ、不登校児童や生徒などの課題が報道でも取り上げられるようになっていった。
昭和四九年には中央教育審議会が「教育、学術、文化における国際交流について」の答申を示した。各国の大使館が多く存在する港区では、比較的早期から国際理解教育を導入しており、昭和四二年度には赤坂中学校がユネスコ協同学校に指定されたほか、同五八年から麻布・三光・飯倉・白金・高輪台小学校、城南・赤坂・御成門・高陵中学校がJRC(青少年赤十字)活動を行っていた。さらに、昭和五九・六〇年度には高陵中学校が「国際理解を深めるための指導」という研究を行い、同五九年度から六一年度にかけては、赤坂中学校が東京都・港区教育委員会帰国子女教育推進指定校として研究を行うなど積極的な国際交流を進める教育を展開してきた。