区内幼稚園の充実

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【区立幼稚園の充実】 戦後学校教育機関として位置付けられた幼稚園は、就学前教育への保護者の関心の高まりもあって入園希望者が多かったが、区立幼稚園は昭和三五年まで四園しか存在せず、多くは私立幼稚園に入園していた。ようやく昭和三六年に桜田幼稚園が開園して五園体制となったものの、区民の間にも区立幼稚園の増設を要望する声が大きくなっていった。折しも、区内の小中学校校舎建設などに目処がついたため、昭和三九年に竹芝・芝浦・笄、同四〇年に三光・青葉、同四一年に神明、同四二年に鞆絵(ともえ)・南海・東町、同四三年に芝・青南・氷川、同四四年に神応・港南・飯倉の幼稚園が相次いで開設され、区立幼稚園は二〇園体制となった。

図 14-2-1-3 区立幼稚園の抽選風景

「港区政要覧」昭和40年版から転載


昭和六〇年までに、区立幼稚園は二五まで増加した。区民からの要望に応える形で、増園が図られたもので、昭和五二年度までは園児数が増加傾向にあったものの、その後は幼児数の減少によって園児数が減少している。
なお保育園については、昭和三七年頃から改築され、福祉会館や都営住宅に併設される園舎が多くなり、同年設置された青山保育園は都営住宅に併設されたものとして注目された(翌年港南保育園も都営住宅に併設)。また、昭和三八年の三田保育園、同四〇年の麻布保育園は、いずれも福祉会館内に併設された。こうして昭和四〇年代から五〇年代にかけて、保育園の開設が相次ぎ、同六〇年には区立保育園一五園、私立保育園が四園存在した。
【私立幼稚園の展開】 戦前から区内の私立幼稚園は存在したが、区立幼稚園の規模が小さかったことから、戦後の就学前教育において私立幼稚園の果たした役割は、極めて大きい。戦後一一園が再開され、その後、昭和二九年までの間に二一園が開園した。区立幼稚園も昭和四〇年代に相次いで誕生していたが、同四八年には区長のもとに「公私立幼稚園調整審議会」が置かれ幼稚園設置や幼稚園教育振興、経営基盤確立についての議論が行われるようになった。しかし幼児数の減少から、昭和五八年には募集停止や廃止となる園も増えてきた。