かつて青年活動の中心であった青年会は、昭和二六年に三〇、同三一・三四年には二三存在し、地域の文化、青年のつながりの象徴であった。やがて高度経済成長期になるとサークル活動や職域を基盤とした活動に変容を遂げたが、昭和四二年一月に「第一回港区青年サークル交歓会」が開かれ、さらに一〇月には「港区青年サークル連合」が設置されるなど、活発な活動が展開された。
昭和三〇年代には、子どもたちの遊び場を確保する目的から、夏季休業中のみ小中学校の校庭や講堂が開放された。また義務教育を終えた青年の学習の場として、青年学級が設けられた。青年学級は、昭和五七年に港区青年セミナーと改称され、内容も含め発展的な再出発を図った。さらに、港区に在住および在勤の青少年が、生活教養や技術を学び身につけながら、豊かな人間性を育むことを目指し、昭和四九年度青年教室が開設された。昭和五五年度には英会話とリボンアートデザインをテーマとした。港区在勤の青年が多く参加する傾向が見られた。昭和五六年度からは、「国際情勢と日本」「青年と人生」をテーマに延べ二〇〇人が専門的な知識と教養を身につける、高度な内容の講座として、青年大学が開講された(巻末表14-2-2-1)。こうした活動を後押しすることからも、昭和三九年に港区青年館が旧西桜小学校跡地に建設されている(図14-2-2-1)。しかるに、この時期に実施された委託調査の結果(昭和四二〜四四年、同四七年)を見ると、気軽で安く使える施設の不足、指導者の不足等が課題として上がってきており、社会教育団体の活動の場が強く求められていた。
図 14-2-2-1 青年館(昭和43年)
【生活学校の活動】 戦後、社会生活環境改善のため、全国的に新生活運動が展開されたが、港区においても昭和三七年度に港区新生活運動推進協議会が結成され、高度経済成長のなかで悪化した生活環境を改善するために、昭和四〇年代以降も継続された。昭和五〇年代には、主婦を中心として進められた生活学校運動として展開され、三田・高輪・六本木・青山・麻布・日の出・御成門の七つ開校された。昭和五一年度には「資源を大切にする運動」を展開したほか、水質汚濁改善への取組も行われていた。
やがて昭和五七年度は五校が中心となって活動し、連合組織として港区生活学校連絡協議会(区連協)を結成して区全体の課題解決や学習会に取り組んでいた。昭和五七年度は空き缶回収運動に取り組み、リサイクル工場見学会を行った。昭和五九年度には、麻布・三田・高輪・青山の四校を中心に活動し、区連協では高齢者問題をテーマとして活動し、アルミ缶回収の益金で社会福祉協議会に車椅子を贈呈している。
【子ども会】 急速な都市化や再開発に伴い、子ども会は大きな影響を受けた。昭和二七年に一九、同三一年三一、同三四年五五と、順調に団体数は増加してきたが、同四三年には三七に減少した。子ども会の数が減少した背景には、①指導者不足、②活動場所の不足、③事故発生時の責任の問題という共通の課題があった。
子ども会には、PTA子ども会、町内会(自治会)子ども会(町内〈自治会〉の子どもで組織され、その青年部や婦人部による世話)、有志子ども会があったが、昭和五四年に国際児童年をむかえると、港区子ども会連合会結成の機運が高まり、新橋子ども会・青空子ども会・竹の子カンパニー・猿町子ども会の四団体により連合会が発足した。
港区では社会教育課青少年係が青少年委員や地区委員活動への指導者の参加なども呼びかけ、キャンプやレクリエーション活動などを通じて青少年の健全育成を図ってきた。昭和五五年には「子ども会指導者講習会――キャンプ編」が行われ、座学とキャンプ実習が行われている。
さらに子ども会のなかのリーダーを育成するために、昭和四九年にミナトジュニアクラブを立ち上げジュニアリーダー教室を、ジュニアリーダー修了生を対象としたシニアリーダーを開設し、教室あわせて外部指導者を養成する少年団体指導者研修を行った(巻末表14-2-2-2)。
【社会体育の大衆化と多様化】 昭和三三年にアジア競技大会が、同三九年にオリンピック東京大会が開催されたことにより、港区においてもスポーツに対する関心は飛躍的に向上した。スポーツ技術が高まった一方で、レクリエーションやコミュニケーションのツールとしてのスポーツが定着していった。この時期港区体育会が発展的に解消し、昭和四〇年港区体育協会が設立された。都内でも初めての財団法人としてスタートしたが、財政的基盤を強化することがその狙いであった。さらに、区内の社会体育振興のために、昭和四九年港区スポーツ運営協議会が設置されている。