図14-3-1-1は、昭和五七年以降の区の年少人口(〇〜一四歳)、生産年齢人口(一五〜六四歳)、老年人口(六五歳以上)の推移を示したものである。年少人口は、昭和五七年には約三万四〇〇〇人であったが、その後急激に減少し、最も少ない平成一二年には約一万六〇〇〇人と、二〇年弱で半分未満となった。
加えて、この時期から区民の私立進学の志向が強まり、区立小・中学校への進学率も徐々に下降線をたどった。図14-3-1-2は昭和六三年度以降の区立小・中学校への進学率を示している。小学校では昭和六三年頃は九割が区立小学校に進学していたが、平成一七年頃以降は概ね八割前後となっている。中学校では、昭和六三年頃は七割弱が区立中学校に進学していたが、平成一二年頃は五割強となり、その後二〇一〇年代に入ると概ね四割台となっている。
人口減少と私学進学率の増加によって、区立小・中学校の在籍児童・生徒数は大きく減少し、極端な小規模の学校や複式学級などが見られるようになった。そのため、区立小・中学校の適正な配置をどのように進めるかが、一九八〇年代から九〇年代にかけて重要な政策課題となった。
図14-3-1-1 年齢三区分別の人口の推移
「港区まち・ひと・しごと創生 総合戦略」(2016)から作成
図14-3-1-2 港区立中学校進学率と港区立小学校進学率
「学校基本統計」「学校基本調査報告書」(東京都教育委員会)、「東京都の統計」(東京都総務局)などから作成
【学校の適正配置に向けた取組】 区の人口減少と在籍児童・生徒数の減少傾向を受けて、昭和六〇年四月に区立学校適正規模等調査会が設置された。調査会は同年九月に中間報告、翌六一年三月に最終報告を提出した。
これを受けて、昭和六二年一〇月には大学教授、校長経験者などの学識経験者とPTA会長経験者らの住民代表からなる区立学校適正規模等審議会が設置された。審議会は昭和六三年七月に中間答申、平成元年一二月に「港区立学校の適正規模、適正配置及び通学区域についての基本的考え方並びに具体的方策について」の答申を出した。答申では、表14-3-1-1にあるとおり、「望ましい学級・学校規模」「港区としての小規模校の基準」「望ましい学校配置と通学区域」が示された。その後はこの基準を踏まえて、地域との協議や説明を経て、学校の統合・新設が行われた。
表14-3-1-1 港区立学校適正規模等審議会答申に掲げられた基準(答申:平成元年12月)
「港区の教育」令和元年度版から転載
区は審議会の答申を受けて平成二年三月に、「『区立学校適正規模等の答申について』の基本的方向づけ」を決定し、芝地区や御成門地区、赤坂地区における取組を進めることとなった。
その後、三地区の学校の統合・新設が進められたが、その後も幼稚園九園、小学校三校、中学校四校が「港区としての小規模校の基準」を下回る現状にあった。そのため、区教育委員会は平成七年八月、今後の教育環境整備の具体的なガイドラインとなる「『区立学校適正規模等の答申について』の今後の取り組みの指針」を決定した。指針では、単に特定の小規模化した学校のみならず、複数の中学校区を合わせた地域の小・中学校共通の課題として、関係者による協議会を設置し、区域全体の教育環境のあり方を検討することとした。
その後、平成一五年九月には港区立小・中学校配置計画等検討委員会が設置され、同一六年三月には、①区立小・中学校の配置計画のあり方について、②区立小・中学校の教育環境整備のあり方についての答申が出され、さらなる適正配置が進められた。
幼稚園は在籍幼児数の減少により、平成の初期(元年から八年)に六園が廃止された。平成七年に「『区立学校適正規模等の答申について』の今後の取り組みの指針」が決定されると、同九年には「港区幼稚園問題内部検討会報告書」がまとめられた。同年、港区幼稚園問題検討委員会が設置され、区立幼稚園の適正規模・適正配置等が諮問された。平成一〇年一〇月に決定された「区立幼稚園配置計画の基本方針」では、一学級の定員は二〇人で複数学級の設置が望ましいこと、将来的に六園程度の区立幼稚園を確保する必要があることとされた。一方で、区立幼稚園を二〇園から六園に減らす方針に対しては保護者などから不満の声もあり、区は「区民の意見を聴く会」を開催するなどの対応を行った(「毎日新聞」平成一〇年七月一一日付)。
その後、平成一三年には「区立幼稚園配置計画の見直しについて」、同一七年には「区立幼稚園配置計画の取り組みについて」が出され、年少人口が増加に転じたことを受けて配置計画の見直しが行われた。
【学校の統廃合】 平成元年から同二七年までに行われた小学校・中学校の新設・統合は以下の表14-3-1-2・表14-3-1-3に示したとおりである。
小学校は、平成元年度に竹芝小学校、芝小学校が統合された。平成三年度には、明治三年(一八七〇)開校の鞆絵(ともえ)小学校と、桜田小学校、桜小学校が統合され、御成門小学校が開校した。例えば桜田小学校は、昭和初期には一〇〇〇人を超える時期があったが、一九八〇年代後半には一〇〇人を切り、一九九〇年代初めには二十数人となるなど、急激に児童数が減少していた。その後、御成門小学校は平成六年度に桜川小学校、同七年度に神明小学校をそれぞれ統合した。
平成四年度には、旧赤坂小学校と檜町小学校が統合し、翌五年度には、檜町小学校と氷川小学校が統合、新たな「赤坂小学校」が設置された。当初は三校を同時に統合する予定であったが、PTA関係者の理解を得ることが難しかったため、二段階に分けて統合が実施された(「朝日新聞」平成四年九月二日付)。
平成一一年、三田地区の小中学校の小規模化に対応する「三田地区の教育環境を考える協議会」が設置され、そこでの検討の結果、南海小学校は、平成一二年度に御田小学校と統合した。平成一六年には、飯倉小学校と麻布小学校が統合した。飯倉小学校と麻布小学校の統合は地元からの反対意見が多く、区議会では区民文教常任委員会では可否同数で委員長裁決により否決され、その後の本会議で再び可否同数となり議長裁決により最終的に可決されるなど混乱が見られた(「朝日新聞」平成一五年一二月一三日付)。
一方で、台場地区では臨海副都心の整備に伴い、将来の想定人口に対応するため、区は台場地区教育施設整備構想を策定し、平成八年四月に港陽小学校と港陽中学校が開設された。
中学校は、区教育委員会が平成七年に「城南中学校・三河台中学校関係者による委員会」を設置し、そこで両校の統合について検討を行った。その結果、 平成一〇年度に城南中学校と三河台中学校が統合され、六本木中学校が設置された。六本木中学校では校歌と校章が公募で決められるなど、住民に愛される学校づくりを目指した。
平成一一年に設置された「三田地区の教育環境を考える協議会」では、芝浜中学校への対応についても検討され、平成一三年度から、芝浜中学校と港中学校を統合した三田中学校が設置された。
表14-3-1-2 平成期の港区立小学校の適正配置の推移
「港区の教育」令和2年度版から作成
表14-3-1-3 平成期に閉校、新設・統合した港区立中学校
「港区の教育」各年度版から作成
幼稚園は、昭和三九年度から小学校の通学区域ごとに一つの区立幼稚園を置く方針であったが、幼児人口の減少により、平成元年から一七年にかけて、一四園が休園・閉園した。また、小学校の統廃合に伴い併設幼稚園が休園・閉園した(表14-3-1-4)。
平成元年に竹芝幼稚園、同三年に桜田幼稚園、鞆絵幼稚園、同四年に赤坂幼稚園、同五年に氷川幼稚園が閉園したが、これはいずれも小学校の統合によるものであった。平成八年には西桜幼稚園が閉園となり、同一二年から一三年にかけては南海幼稚園、東町幼稚園、飯倉幼稚園、青葉幼稚園が休園(いずれも同一五年に閉園)となった。南海、東町、飯倉幼稚園に関しては議会に請願が出されるなど区民や関係者からも多くの意見があったが、慎重な協議の結果、休園・閉園が決定された。平成一五年には、神明幼稚園も閉園となった。平成一七年には芝幼稚園、神応幼稚園、笄(こうがい)幼稚園が休園となり、平成一九年に閉園した。
表14-3-1-4 港区立幼稚園の休園・閉園
「港区の教育」各年度版から作成
この時期、区立幼稚園の休園・閉園が相次いだが、開発が進んだ台場地区では、平成八年度の港陽小学校の開校に合わせて、その敷地内ににじのはし幼稚園が開園した。
【区内の諸学校】 港区内には区立以外にも多くの学校が存在する。この時期は、大学や都立高等学校などで移転・新設や統廃合などの変化が目立った。大学では平成一五年に東京商船大学(江東区)と東京水産大学(港南四丁目)が統合して東京海洋大学(本部:港区)が設置された。また、平成一七年に政策研究大学院大学が埼玉大学(さいたま市)から六本木に移転した。
都立高校は平成九年に中途退学や不登校に対応したチャレンジスクールが計画され、城南高等学校の全日制と日比谷、三田、芝商業、青山、第一商業の各定時制課程を統合した定時制・単位制の総合学科として、平成一七年に旧城南高等学校跡地に六本木高校が開校した。また、平成一六年に港工業高等学校が、同二一年に赤坂高等学校がそれぞれ閉校し、同二六年には跡地に青山特別支援学校(小・中学部)が開校した。
私立小・中・高等学校はこの時期大きな動きは少ないが、明治学院高等学校は平成三年に、正則高等学校は同一二年に男女共学に移行するなどの変化が見られた。