令和三年(二〇二一)八月二三日、東京二〇二〇オリンピック・パラリンピック(以下、大会そのものについては「二〇二〇年大会」と略記、またオリンピックとパラリンピックの開催については、正式には二つを合わせて一つという位置付けではあるが、単に「オリンピック」と呼称されることが一般的であるので、本節でもそれに従う)が幕を開けた。新型コロナウイルスの感染拡大という未曾有の出来事により、近代オリンピックの歴史上、「延期」という初めての措置を経た上での開催であった。
令和元年末に端を発した新型コロナウイルスの感染拡大は、同二年に入って日本のスポーツ界にも大きな影響を及ぼした。春と夏に阪神甲子園球場で開催される高校野球の全国大会が中止になったのが象徴的である。その他、プロ・アマチュアを問わず様々な大会や試合が中止の憂き目に遭った。
そうした中で、結果的にオリンピックは延期して開催されたのだが、「なぜオリンピックだけは中止にならないのか」という議論が起こることとなった。スポーツ界最大イベントの一つであること、スポーツ界に留まらず社会・経済全体に大きな影響を及ぼすことを考えれば、可能な限り開催したいと考える主体が多くいることは想像に難くない。
また日本社会は、二〇一〇年代に入ってから人口減少に起因する「縮小社会」へと突入しており、大会招致の段階で、オリンピックを契機に社会の閉塞感を打破したいという思惑があったことも事実である。オリンピックは、世界最大規模を誇る大会の一つであること、それゆえ「社会・経済か生命の安全か」という、天秤にかけること自体が非常に難しい命題を乗り越えて、これもまた史上初であった無観客での開催を選択した、といえるだろう。
はたして二〇二〇年大会の開催は正しい選択だったのか。この問いに対する答えはもう少し先に歴史が証明することになるだろうが、少なくとも現時点で、昭和三九年(一九六四)の東京オリンピック・パラリンピック(以下、「一九六四年大会」と略記する)と合わせて、どのようなレガシー(遺産)が生み出されたのか、ということを確認しておく必要がある。また、同じオリンピックといっても、一九六四年と二〇二一年では社会状況が大きく異なる。まずはそれぞれの大会の時代的背景を概観してみよう。