〔第四項 二〇二〇年大会の背景〕

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平成三年(一九九一)のバブル崩壊以降、日本社会は長引く景気悪化に常に悩まされるようになる。いわゆる「失われた一〇年」「平成不況」と呼ばれる状況である。また、平成二七年の国勢調査で、大正九年(一九二〇)の調査開始以来、初めて総人口が減少するなど、「縮小社会」と呼ばれる状況が現実のものとなってきている。
結果的に二〇二〇年大会の招致は「成功」したが、東京は一つ前の二〇一六年の夏季大会(ブラジルのリオデジャネイロで開催)にも立候補し、落選している。その際に大きな要因とされたのが「オリンピック開催の意義」である。高度成長期の「右肩上がり」のなかで開催された一九六四年大会とは社会情勢が大きく異なるなかで、「なぜ今、東京でオリンピック開催なのか」ということが盛んに問われた。もちろんオリンピックの開催の最大の目的は、提唱者であるピエール・ド・クーベルタン男爵の言にあるとおり「世界平和に貢献する」ことである。しかし、そのために開催都市は短期的にも長期的にも少なくない負担をしなければならない。一九六四年大会の場合は、スポーツの一大イベントの開催を支えるべく、そこに合わせて都市空間の改造が盛んに行われた。前述したとおり「開催に間に合わせるために」「大会をスムーズに運営するために」という「締め切り効果」もあり、結果的に大会の運営を支えることとなった。そして約半世紀が経った現在、大会そのものの記憶はもちろんのこと、それに付随するものとして交通インフラを中心とする「ハード」面の整備が進んだことが多くの人の記憶に残り、実際に東京の都市空間を支えるものとなっている。日本社会が戦争のダメージから立ち直り、社会的・経済的な「離陸」を果たそうとするなかでオリンピックは格好の目標になったといえるだろう。
それに対して、二〇二〇年大会は正反対ともいえる状況下での開催となった。二〇一六年の大会を招致しようとした当時の石原慎太郎都知事が、一九六四年大会の時のような高揚感を得て、社会の閉塞感を打破しようとしたことは、うなずけなくもない。ただし、今後の社会の縮小化のなかで、一九六四年大会と同じような論理は通用しないこともまた事実である。
では、二〇二〇年大会は後世に何を残そうとしたのか、また残そうとしているのであろうか。