1)海面変化と地層の形成

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 武蔵野台地は西縁をのぞいて周囲を低地に囲まれている。港区内には武蔵野台地東縁部の一部が広がり、その東側は東京湾沿いの低地に占められている。この低地は武蔵野台地東部を開析して発達する汐留川(虎ノ門から赤坂見附にかけての谷)と渋谷川に沿う低地に続く。これら低地の地形は、砂州からなる微高地、後背湿地、開析谷谷底、盛土地・埋立地などの人工改変地からなる。また低地地下には埋没海食台、埋没谷とそれを被覆する沖積層などが複雑に分布している(図2-ⅳ-1)。これら地形の形成や沖積層の堆積は約2万年前の最終氷期最盛期以降の汎世界的な海面変化と河川の堆積作用、海岸侵食などが深く関わっている。

図2-ⅳ-1────港区北東部周辺における低地地下の地形(港区(1979)、松田(2013)、角田(2014)などに基づく)


 世界的に寒冷であった約2万年前の最終氷期最盛期には高緯度地域の各地で現在よりも氷河が拡大していた。このため海水の量が現在よりも少なく、海面が現在に比べて120m程度低下していた。その後、最終氷期最盛期が過ぎて地球全体が温暖化するにつれて氷河がとけ海面は上昇し、最終氷期最盛期に形成された谷に海が侵入するようになる。これは後氷期海進とよばれる。もっとも海域が拡大した頃は、縄文時代の貝塚の分布から、関東の平野の内陸部まで海が深く侵入していたことが東木(1926)により示され、埼玉県までに湾入していた海域は奥東京湾と名づけられた(大山ほか 1933)。
 この間に堆積した沖積層は、時代としては後期更新世の末期と完新世にかけて形成されたものである。完新世はかつて沖積世と称されていたが、沖積層の堆積年代は沖積世、すなわち完新世のみでない。国内における沖積層の調査は、関東大震災をもたらした大正関東地震(1923)をきっかけにすすめられた。そして沖積層の模式的な地層として,千代田区有楽町において記載された貝を含む地層に対して有楽町層の名称があたえられた(Otuka 1934)。その後沖積層は東京低地において、上位の有楽町層と下位の七号地(ななごうち)層に区分された(東京都土木技術研究所 1969)。また、遠藤ほか(1983)は完新世基底礫層(HBG)の基底を有楽町層と七号地層の境界として、それぞれを有楽町海進と七号地海進により形成されたと考えた。Kaizuka et al. (1977)や松田(1993)でも沖積層が細分され、有楽町層に相当するUA(最上部陸成層)、US(上部砂層)、UC(上部泥層)、MS(中間砂層)(Kaizuka et al. (1977)ではMSは有楽町層の下位)と七号地層に相当するLS、LC(下部砂泥層)、BG(基底礫層)が区分された。
 遠藤ほか(2013)による大田区大森から、江東区青海、新木場、千葉県浦安市、西船橋をとおる地下断面図(図2-ⅳ-2)によれば、江東区地下では沖積層の基底は標高-70mよりも深く、有楽町層と下位の七号地層の境界深度は-0~-40m付近にある。これに対して港区内の沖積層は、深くても-30m付近に基底があるのでほとんどが有楽町層と考えられ、埋没谷最深部に一部に七号地層最下部の基底礫層に続く堆積物の存在が考えられる。

図2-ⅳ-2────東京低地の地下断面図(遠藤ほか(2013)による)


 港区周辺の沖積層の分布やその深度についてはこれまで、港区(1979)、松田(2013)、角田(2014)などで図示されてきた。図2-ⅳ-1はこれらに基づき作成した沖積層基底の等深線図である。この図に示されるように区内の沖積層は次の三つのタイプのものからなる。武蔵野台地内の開析谷の地下に存在する埋没谷を埋積する層厚20m以内のもの、これら埋没谷の延長に続き東京湾沿いの低地地下に存在する層厚10~30mの沖積層、そしてその埋没谷間に発達し標高-10~-15mの平坦な埋没段丘、すなわち埋没海食台を覆う層厚20m以下の沖積層、以上3タイプである。
 このうち赤坂見附から虎ノ門にかけての汐留川沿いの埋没谷は、西新橋付近地下において、北から流下していた古神田川の埋没谷とで合流し、その延長は丸の内埋没谷となる。また渋谷川沿いの低地地下にある埋没谷は渋谷川下流の名称に由来する古川から古川埋没谷としてよばれている(港区 1979)。丸の内埋没谷と古川埋没谷の間に伏在する埋没海食台は芝埋没台地とよばれている。