最終氷期最盛期(約2万年前)には海水準が100m以上低下したため、東京湾は陸化し、中央部に「古(こ)東京川」の谷地形が形成された。谷の両側は波食台(海食台)や武蔵野台地の立川面に相当する段丘面が分布していた。これらの谷や段丘は、現在は沖積層におおわれた「埋没地形」である。
最終氷期最盛期以降、完新世中期までは急速な温暖化と海面上昇が進行した。古東京川の狭い埋没谷沿いにまず海水が侵入して細長い湾となり、やがてそこから両側の埋没段丘上も浸水した。さらに、現在の武蔵野台地や下総台地などの周縁部は波食を受けて海食崖が続き、さらに内陸側に海進がおよんでいった。
最大海進時(約7,000年前)の東京低地は、荒川低地と中川低地の内陸まで続く長大な内湾となった。この荒川低地と中川低地に侵入した部分を「奥東京湾」とよんでいる。
最大海進期以降、奥東京湾は利根川・荒川水系の堆積物により埋め立てられてデルタが拡大していき、この内湾はしだいに縮小する。
田辺ほか(2010)などによれば、東京低地と中川低地の開析谷(かいせきこく)(埋没谷)軸部における沖積層は、深い方から、扇状地でみられるような網状(もうじょう)河川システム(礫層よりなる)→下流部でみられるような蛇行(だこう)河川システム(砂層とシルト層の互層(ごそう)よりなる)→河口付近のエスチュアリーシステム(潮汐(ちょうせき)河川、干潟、海進砂、浅海堆積物などよりなる)→海に向かって伸びる砂嘴(さし)システム(砂層や砂泥互層など)→浅い海底を埋め立てるデルタシステム(デルタ堆積物、干潟堆積物、河川堆積物などよりなる)に区分され、詳細な堆積環境の復元が行われている(図3-ⅳ-1)。
図3-ⅳ-1────中川低地~東京低地の古地理(田辺ほか 2010 を改変)
沖積層で埋められた谷の周辺には、波食台(海食台)の地形が形成された(図3-ⅳ-2)。武蔵野台地の崖下では、海進時に波によって平坦な地形がつくられ、薄い沖積層に覆われているため「埋没波食台(海食台)」とよばれている。日本橋埋没台地上の汐留周辺は沖積層が薄く、その下のやや固い基盤が浅いところに認められている。
図3-ⅳ-2────都心部の沖積層基底図(松田 2013 に加筆)
東京湾に面する台地上では、縄文時代に集落がつくられ、貝殻を捨てた貝塚を残した。伊皿子貝塚(三田4丁目(写真3-ⅳ-1))、西久保八幡貝塚(虎ノ門5丁目)などで調査が行われ、主に縄文後期のものとされた。伊皿子貝塚ではハイガイやマガキ、西久保八幡貝塚ではハイガイやハマグリなど、内湾の潮間帯(ちょうかんたい)に生息する種が多く、東京湾の干潟の環境を示す。
写真3-ⅳ-1────伊皿子貝塚の断面(郷土歴史館)
最大海進期以降、奥東京湾は利根川・荒川水系の堆積物によりデルタが拡大していき、この内湾はしだいに縮小する。弥生時代以降、この新しいデルタ地域に人類が定住をはじめたものと考えられる。ただし、東京低地や周辺の低地には弥生時代の遺跡は非常に少なく、東京低地では上小岩(かみこいわ)遺跡(江戸川区)などわずかである。
古墳時代には東京低地東部の利根川デルタ微高地に大規模な集落が形成されていた。推古朝の下総国葛飾郡大嶋郷(かつしかぐんおおしまごう)戸籍にある集落などもこの利根川デルタ上の集落と考えられている(現在の葛飾区・江戸川区に比定)。上流側の中川低地に比べ、最下流部のデルタ地域の開発が早くからすすんでいたことは興味深い。おそらく東京低地と荒川低地・中川低地では洪水の挙動が異なり、中川低地では湛水の規模・頻度が大きな後背湿地の開発がすすまなかったのであろう(久保 1994)。
現在の港区周辺では、最大海進期に溜池の谷や古川の谷の下流部が小さな入江となり、愛宕山や高輪台地のふもとが波に洗われていたと思われる。その後、若干の海面低下とデルタの前進により、日本橋埋没台地や芝埋没台地などは陸化し、江戸前島の砂州や台地のふもとの砂州が形成されるようになった。しかし、丸の内埋没谷の部分は入江の状態が続き、日比谷入江として残された。
溜池の谷や古川の谷は、規模が小さく上流から運ばれてくる土砂の量が少ないため、入江のあとがなかなか埋め立てられずに湿地帯として残された。赤坂見附から虎ノ門にかけての溜池の谷や、麻布台地と三田段丘の間の古川の谷では、湿地の植物遺体からなる泥炭層が厚く堆積した。その後、溜池は慶長11年(1606)頃に浅野幸長(あさのよしなが)による造成を受け人工の貯水池とされた(港区 1979)。