東京低地は旧利根川や旧荒川のデルタ地帯として形成されたが、低地の中にわずかに高い部分(微高地)があちこちに分布する。これらのうち、上野の台地から銀座にかけて伸びるものが上述の江戸前島とよばれた砂州である。このほか、台東区の浅草周辺や、市川市行徳(ぎょうとく)付近にも海岸線と並行する砂州の地形があり、また、市川駅付近にも台地に沿って砂州地形がみられる。一方、中川や江戸川のまわりにたくさん分布するのは自然堤防という地形である。砂州はかつての波打ちぎわに波の作用でできた微高地で、また自然堤防は川の氾濫によって土砂が積もってできたもので、これらはかつての海岸線や河川の作用が残された地形として読みとることができる(図3-ⅴ-1)。
図3-ⅴ-1────東京低地地形分類図(久保 1993 の部分)
一方、東京低地南部には、運河が密に入り微高地がほとんど見あたらない部分がある。この部分が干拓地(かんたくち)であり、江戸時代以降に造成された部分である。また、海岸部以外でも、内陸で湿地だったところに水路を造って排水し、開拓した部分があちこちにある。
以上のように、人工的に地形が改変された部分を元に戻して、人工改変が行われる前の中世頃の地形を復原した(図3-ⅴ-2)。干拓地ができる前の東京湾は、遠浅の干潟が広がっていたと考えられる。また、現在の荒川は人工水路であり、隅田川が荒川の下流であった。中川や江戸川は旧利根川の下流になるが、川が分岐して利根川のデルタになっていた(久保 1994)。太田道灌(おおたどうかん)の頃の「長禄(ちょうろく)江戸図」には溜池などが描かれており、後世の作ともいわれる(千代田区 1993)。
図3-ⅴ-2────中世頃の東京低地(久保 1994)
微地形と遺跡の分布等により東京低地の時代ごとの地形の変化をみると、古墳・奈良時代くらいはまだかなり海が入っており、利根川のデルタの部分が張りだしていた。中世になるとほとんどの微高地上に人が住むようになり、江戸時代に河川のつけかえや干拓が行われ、20世紀には人工改変が非常にすすんだ。東京低地のゼロメートル地帯が拡大し、また埋立地は近世以降10km以上も沖合に陸地が広がってきた。