2)日比谷入江

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 貝塚(1979)は、太田道灌の時代に江戸城の南東方、いまの新橋あたりから日比谷・丸の内にかけては「日比谷入江」が入り込み、その東には東京駅付近から有楽町付近にかけて、「江戸前島」とよばれた半島状の砂州があったと記した。また、家康入国の天正18年(1590)頃もほとんどかわらなかったとして、『千代田区史』よりそれらの範囲を示している。
 松田(2009)は日比谷入江に関してまとまった検討を行っている。そこで示される鈴木(1978)の図では、日比谷入江が愛宕山の北側に入り込んだ形となっている。松田(2009)の図では、霞ヶ関や愛宕山の東側に砂州が示される一方、溜池の谷の出口(虎ノ門)付近には砂州は示されていない。また、江戸前島砂州は新橋駅の北東方で標高4mに達している。
 松田(2013)はさらに日本橋台地・江戸前島・日比谷入江に関する詳細な解説を石川ほか(2009)や遺跡調査の結果などもふまえて示した(図3-ⅴ-3)。そこでは沖積層下の埋没地形とともに、江戸前島の堆積物(砂層)とその西側(日比谷入江側)の湿地性堆積物の分布が描かれている。そして日比谷公園付近は1400年頃には淡水性の湿地になっており、日比谷入江は家康入城頃にはかなり縮小していたと述べた。さらに2013年に有楽町1丁目の発掘現場で観察した日比谷入江の堆積物についても記し、今後の珪藻や花粉分析などにより日比谷入江の中世から近世にかけての詳細な変遷が明らかにされることを期待している。

図3-ⅴ-3────江戸前島と日比谷入江(松田 2013)


 このほか、角田(2014)はボーリング資料から虎ノ門3丁目(愛宕山)~新橋駅間の地質断面図を作成し、日比谷の入江付近の埋没地形とともに、西半分の最上部に2~3mの砂礫層を挟むと述べた。この砂礫層は砂州の堆積物を示すのかもしれない。また、角田(2016)は江戸前島や日比谷入江を中心とする地域の海岸線変化を図にまとめた。それによれば「中世(今から600年前)」の日比谷入江はそれ以前よりも幅が狭く浅くなり、「寛永10年(1633)頃」には大規模な土木工事で埋め立てられた、としてそれらの様子を示した。