2)植生の歴史的移り変わり

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 有楽町海進の後から江戸時代までの港区の植生については、港区から千代田区に広がる溜池遺跡によって知ることができる。溜池遺跡は主に江戸時代の遺跡からなるが、6,000年ほど前からの地層が重なっていることから、各時代の地層に残された木材や種、花粉、あるいは生活していた人びとのゴミまでをも調査することによって、植生の変遷と人間の活動が研究されている。しかも溜池遺跡は、台地上だけではなく、開析谷とよばれる最終氷期に海面が低下した時に発達した谷やそこから枝分かれした小さな谷にも広がっているため、台地から斜面、湿地帯といった多面的な捉え方ができる。
 縄文海進がピークを迎え、そして落ち着いてきた7,000年ほど前、気温は今よりも1、2℃、水温も2、3℃高かった。この時代には、コナラの仲間や同じブナ科に属するクリの仲間、あるいは温帯に分布する落葉広葉樹のニレ科のニレやケヤキの仲間、アサ科のエノキやムクノキの仲間が広葉樹林の主な構成植物であった。
 さらには4,000年ほど前、縄文時代の後期になると、海退とともに人間活動が活発になった。それにともなって東京湾沿岸には多くの貝塚が形成され、また植生にも変化が起こって、コナラを中心とした森林が減少してクリ林が拡大した。クリは縄文時代の主要な食料資源の一つと考えられており、クリ林の優勢はそこで生活していた人びとの生業活動に関係していると考えられている。
 一方、海退とともに溺れ谷の環境も急変して、湿地帯が広がった。そこには、湿地や沼に生育するカバノキ科のハンノキや根が冠水しても生育するトネリコやヤチダモを含むモクセイ科の落葉広葉樹が湿地林を形成した。さらに、海岸には海藻が繁茂していた可能性がある。これは、海藻そのものは遺存していないが、海藻に付着する小さな巻貝のコウダカチャイロタマキビやマキミゾスズメモツボが貝塚から出土することから、海岸の海藻を採集・利用していたと推測されている。
 3,000年ほど前の縄文時代の晩期から弥生時代になる頃には、コナラ中心の落葉広葉樹が衰退し、同じブナ科のアカガシの仲間からなる照葉樹林が急速に拡がった。アカガアシの仲間は落葉しない常緑樹で、光沢のある深緑色をした葉をもつ。武蔵野台地の内陸部では照葉樹の発達は貧弱で落葉広葉樹が優勢であったとされるが、溜池遺跡は東京湾の北西奥の沿岸部に位置しているために、いち早く照葉樹林が成立したとされている。
 海退は、今の海水準よりも下がり続け、2,000年ほど前に現在よりも2mくらい低くなった後、300年ほどをかけて今の水準にまで回復した。この海水面の変化は弥生の小海退と呼ばれている。しかし関東地方では、弥生時代を象徴する水田稲作の導入がかなり遅れて、縄文文化型弥生時代が長く続き、紀元前後の2,000年ほど前になって水田稲作が始まったと考えられている。
 2,000年前から平安時代にあたる1,000年ほど前には、弥生の小海退によって谷筋の植生が一変した。ハンノキやトネリコなどの木本類(年輪を形成して幹が年ごとに大きくなる)からなる湿地林が、イネ科のヨシ(簾の原料でアシとも呼ばれる)やカヤツリグサ科(菅笠で使われたスゲや紙の原料として有名なパピルスなどが含まれる)といった年輪を形成しない草本類の湿地帯に変化したのである。
 こうした草本類に覆われた湿地が水田として開発されたことは十分にありえる。イネのプラント・オパールと呼ばれる植物由来のケイ酸体が多量に産出されることから、この時代に稲作が行われ始めたと考えられている。
 台地上でも、気温の低下や乾燥などの劣悪な弥生時代には、森林が立ち木のまばらな状態である疎林へと姿を変えていった。その後、平安時代の末頃には森林が回復するとともに、スギの増加が認められる。スギは、木材資源の枯渇にともなう生業活動によって、植林された可能性が高い。
 およそ1,000年前から400ないし500年前までの鎌倉時代から江戸時代前夜にかけては、台地上ではコナラやアカガシの仲間、スギ、およびマツ類が疎林を形成していた。一方、開析谷では水田耕作が行われ、カヤツリグサなどの水田雑草が多く生育していたが、15世紀末の戦国時代の頃には水田地帯を含む開析谷が堰き止められて溜池に改変されたと推定されている。その後の溜池は、汚濁した水にも強い珪藻の化石群集が示すように、水質がかなり悪化したと考えられている。
 溜池が形成されてから江戸時代にかけての周辺の植生の特徴としては、アカガシの仲間がほとんど消失し、コナラの仲間やスギも疎林となったことがあげられる。その一方で、ニヨウマツ(二葉松)と呼ばれるアカマツとクロマツからなるマツ林が急に増加する。また、ツバキやカエデの仲間、エノキやムクノキの仲間などのように、今も見かける植物が、屋敷やその周りに植栽された。
 溜池遺跡からは、イネやソバの仲間だけではなく、ナスやベニバナの仲間やアブラナ科などが花粉化石として検出されている。これらは、溜池上流部での稲作や屋敷の周辺での畑作、あるいは生活廃水などによって流入したものと考えられている。さらに、マクワウリやシロウリの仲間、ゴマ、キュウリなどの食生活に関係する栽培植物や、スギやヒノキ、サクラなどといった庭木などの環境ゴミが産出している。
 江戸時代には、大名屋敷の庭園から一般庶民にまで花卉(かき)園芸文化が浸透し、江戸の市街地には植木屋や花屋が登場している。港区でも「植木坂」(麻布台3丁目)には何軒かの植木屋が軒を連ねていたといわれている。奈良時代に外来植物として入ってきたキクを使った菊人形の発祥の地はここであるともいわれている。さらに芝や愛宕山あたりも花卉園芸の産地として知られていた。大きな庭園などではマツやウメ、サクラ、タケなどの大きな木だけではなく、ツバキやサツキ、あるいはボタンやシャクヤクなどが植栽された。庶民はキクやハナショウブ、アサガオなどを楽しんでいた。
 江戸時代の後期、文政7年(1824)に江戸とその周辺の動植物を記録した『武江産物誌』によると、花見の対象としての「遊観類」のうち、ウメなら「茅野の梅 増上寺山内」(現在の芝公園(増上寺)の一角にあった茅野天神の梅)、サクラなら「糸桜 増上寺」(増上寺のシダレザクラ)や「長谷寺 麻布」、「光林寺 麻布」、「麻布広尾 木下屋敷」のもの、あるいは「泰山府君 三田」(三田は慶應義塾大学の場所にあった松平主殿頭(とのものかみ)の中屋敷で泰山府君はサクラの品種)、ヤナギなら「〓灑柳(うなりやなぎ) 麻布善福寺」などがあげられ、ハスも「赤坂溜池」と「増上寺赤羽橋内」のものが、またキクも「麻布 目黒 青山辺」のものが記されている。
 さらに「名木」として、「金松 笄(こうがい)橋 長谷寺」という記録がある。金松は常緑高木のコウヤマキ、笄橋は西麻布にあった古川の支流である笄川(今は暗渠)にかかる橋であるが、この名木は戦災で失われたという。マツについては「一本松 麻布」や「光明松 増上寺」、「火除けの松芝」など、多くが記録されている。善福寺には、先述したヤナギに加えて、「楊枝杉」と「杖銀杏」も記されている。杖銀杏の方は現在、俗に「逆さイチョウ」と呼ばれて国指定の天然記念物になっている。
 こうした武家屋敷や社寺の庭園や樹林が残存する形で、現在の港区の「みどり」の骨格が形成されている。