3)動物の歴史的変遷

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 有楽町海進後、特に縄文時代の港区の動物相については、貝塚の研究によって垣間見ることができる。有楽町海進と海面の拡大が頂点に達して海面の高さが安定した時代、およびその後のゆっくりとした海退によって、港区を含む東京湾の沿岸では、開析谷にも海水が入り込んでいわゆる溺れ谷を形成し、さらに湿地帯や砂泥底域の干潟が広がった。こうした沿岸域あるいは台地上で人びとが生活した跡が貝塚である。港区の貝塚としては伊皿子貝塚や丸山貝塚、西久保八幡貝塚などが知られ、貝だけではなく、動物の骨などが記録されている。これらの貝塚は立地条件が異なり、東京湾に直接臨むのが伊皿子貝塚で、古川の北側斜面には丸山貝塚が、さらに支流の小さな谷に面して西久保八幡貝塚がある。伊皿子貝塚は集落から離れた日常の作業場としての貝塚と考えられているが、西久保八幡貝塚は人びとが暮らす集落の中の貝塚である。丸山貝塚は全容が明らかになっていない。
 まず、貝についてみてみよう。伊皿子貝塚で82種(巻貝が67種、二枚貝が15種)、丸山貝塚で22種、西久保八幡貝塚で28種の貝類が出土している。
 出土する貝の種類の多さでは、およそ4,000年前の伊皿子貝塚は国内屈指の貝塚である。ただし、食用にされたのは82種中10種くらいとされている。伊皿子貝塚で特に多く出土するのは、ハイガイ(アカガイの仲間)とマガキで、これら2種で全体の80%を占める。ハイガイとマガキに次いで多いのはアサリやオキシジミ(シジミの仲間ではなくアサリの仲間)、オオノガイ、シオフキ(アオヤギで知られるバカガイの仲間)、アサリの仲間のカガミガイ、アカガイの仲間のサルボウなどで、これらは泥の干潟域に生息する。干潟の砂泥底域に生息するハマグリはかなり少ない。巻貝ではウミニナ類やツメタガイ、アカニシ、イボニシなどが量は少ないものの出土する。
 西久保八幡貝塚から出土する貝類は、ほとんどが伊皿子貝塚からも報告されている。しかし、西久保八幡貝塚の下部の地層(およそ4,000年前)ではハイガイ(全体の50%を占める)とハマグリが多いのに対し、3,000年前の地層ではオキシジミが多くハイガイが激減している。ハイガイは、縄文時代の東京湾の貝塚ではアサリやハマグリ、マガキなどとともに最優占種であるが、縄文時代の終わりにかけて激減する。これは、元々ハイガイが亜熱帯性の内湾泥質干潟に生息する貝であり、縄文時代の温暖期にその分布を北に拡げたが、縄文時代の終わりから弥生時代にかけての寒冷期に急速に分布が狭くなったためと解釈されている。現在では、日本では有明海にだけ産し、環境省レッドリストの絶滅危惧Ⅱ類(VU:絶滅の危険が増大している種)に指定されている。ただし、中国大陸から東南アジアにかけては広く分布している。
 貝塚では、魚類の骨や鱗なども出土する。伊皿子貝塚では20種の、西久保八幡貝塚では23種の魚類が確認されている。伊皿子貝塚で多いのは、クロダイ、ボラ科、アジ科、スズキ、ヒガンフグ、ニシン科、コチの順である。西久保八幡貝塚では出土個体数は不明であるが、ヒガンフグ以外は出現している。すでにこの時代にフグを食べる習慣も技術もあったのだろうか。両方の貝塚では沿岸から外洋を回遊するサバの仲間が、さらに西久保八幡貝塚では回遊性のカジキの仲間が出土している。ほかにもサメやエイの仲間やウナギ、サヨリやアイナメの仲間、マダイ、カレイの仲間などが記録されている。伊皿子貝塚は、貝類に比べて魚類が少なく、魚類も鱗が多く出土することが特徴的である。やはり海辺の作業場として、貝類は身を取って貝殻を放置するが、魚類はこの場所で鱗の処理などをして骨ごと持ち帰ったのだろうか。
 伊皿子貝塚の動物の遺存体は少なく、哺乳類6種と甲殻類のカニ類、両生類のヒキガエル、爬虫類のヘビ類だけが出現している。哺乳類はモグラの仲間のヒミズ、ネズミの仲間のアカネズミとカヤネズミ、ヒメネズミ、それとタヌキとイノシシである。
 動物の遺存体はむしろ西久保八幡貝塚の方が多く、カメ類とヘビ類(爬虫類)、ヒキガエルとニホンアカガエル、あるいはアカガエルやアオガエルの仲間(両生類)、キジとフクロウの仲間(鳥類)が出土している。食料となる哺乳類では、最も多かったのがイノシシで、さらにキツネとシカ、タヌキ、ノウサギが出現している。ほかにもアカネズミやキクガシラコウモリ、モグラが出土している。
 港区からの記録はないが、東京湾内湾の貝塚からはイルカやクジラの骨格も出土している。潮を吹くクジラの姿が港区の沿岸からも見えたかもしれない。さらに、湾の奥部に迷い込んでストランディングとよばれる打上げられた個体を食料として、あるいは装身具などの材料として利用していたのかもしれない。
 弥生時代になると、東京湾沿岸の人口は激減し、貝塚もほとんど消滅してしまう。その後、江戸時代になるまでは、東京湾の内湾では半農半漁的な細々とした生業が続いていたと考えられているが、沿岸だけではなく台地でも、弥生時代から江戸時代までの動物に関する記録はほとんどない。
 江戸の開府とともに、人口が爆発的に増加し、それにともなって食料の需要も増大した。特に魚介類の供給には芝浦と金杉浦の漁業集団が活躍した。徳川家康の江戸入府とともに漁業上の特権を得、さらに江戸城に魚介類を献上する御菜八か浦に指定され、江戸時代の内湾漁業の中心地であった。また、漁獲された雑魚を販売したのが現在の本芝公園(芝)にあった雑魚場である。
『武江産物誌』には、動物として「虫類」や「海魚類」、「河魚類」、「介類」、「水鳥類」、「山鳥類」、「獣類」が記され、種類によっては産地も示している。海魚類では、コノシロが「江鰶魚 芝」(この魚名は「コハダ」と読み、コノシロの若魚を指す)および「鰶魚(コノシロ) 芝」と記され、アミが「糠蝦 あミ 芝沖」、シバエビが「白蝦 志バえび 天王洲」と記されている。産地が記されていないものにはボラやスズキ、ウミタナゴ、アジ、サバなどが記録されている。
「虫類」の多くは産地が記されていないが、これは江戸やその周辺のどこにでも生息していたと解釈できる。
「水鳥類」では「鵠 はくてう はくてうの池 溜池」だけが港区(溜池)と関連している。いわゆるハクチョウで、「はくていの池」は墨田区と足立区の境にあった「丹頂の池」であるが現在は埋め立てられている。「鸛 かう 葛西」はコウノトリを指し、ここでは葛西だけがあげられているが、コウノトリは江戸各地の木の上や屋根に営巣していたといわれ、港区でも長谷寺(西麻布)が知られている。トキも「紅鶴 とき 千住」として千住だけがでている。しかし、トキは江戸の各地で田畑を荒らす害鳥として知られていた。こうした大型の水鳥は、港区の田畑や水辺にも飛来していた可能性が高い。
「山鳥類」で港区と関連しているのは「杜鵑 ほととぎす 高田の里 谷中 芝幸いなり 小石川初音の里 駿河台 八ツ山」と「告天子 ひばり 広尾」、「かけす 上野 芝」である。ホトトギスの「芝幸いなり」は芝公園の幸稲荷神社で「八ツ山」は品川区との区境。ヒバリの広尾は「薬草類」の場所別の中に「廣尾ノ産」があるように、江戸時代は草原が広がった場所で、その上空をヒバリが舞っていたということだろう(図1-ⅰ-1)。カケスは、今でも東京都区部では冬の鳥として知られている。

図1-ⅰ-1────『江戸名所図会巻3』より広尾原(国立国会図書館デジタルコレクションより転載)


「獣類」ではウマ、ウシ、キツネ、タヌキ、カワウソ、リスなどがあげられている。その中でも「牛 車うし」は、現在の高輪2丁目の泉岳寺辺りが有名である。ここは、かつて芝車町、俗に牛町あるいは高輪牛町と呼ばれていた。江戸時代になって、増上寺の造営や江戸城の工事のために京から集められた牛車を扱う業者が多く住んでいた。
 このように港区の動物については断片的な情報しかない。しかも明治以降は首都機能強化のために開発が加速して現在にいたっている。