港区域で人びとが活動を開始して約3万年になる。この間、人びとはさまざまな形で自然と関わってきた。
港区域最古の人びとの活動の痕跡は、赤坂台から麻布台へと移行する今日の赤坂9丁目で発見されている。後期更新世前半期の遺跡で、後半期には活動領域は港区域内のほぼ全域に広がったとみられる。この時代の人びとは土器をつくらず、石器を中心とする道具を用いて、自然と共存し、移動性の高い生活を送っていた。広範囲に地形を改変することなどなかったであろう。
縄文時代になり定住化が始まると、港区域にも集落が形成されるようになる。台地上に平場が少なく、台地斜面も比較的急な傾斜が多い港区域の地形から考えると、10軒を超えるような大規模集落が形成されたとは考え難いが、それでも住居をつくるために少なからず林野が開かれたことは容易に想像できる。また、この時代の人びとは積極的に海と関わるようになる。港区域では前期以降、眼前に広がる現在の東京湾沿岸の海洋資源を利用していたことが考古学的調査・研究から明らかにされており、河川や山野だけではなく、さまざまな自然の恵みを取り込み、暮らしを営んだ。
次いで弥生時代に入り水田稲作の技術が伝わると、谷間を中心とした低地に田圃がつくられた。港区内では水田跡こそ発見されていないが、発掘調査等で行われた土壌分析により、港区域の低地における水稲栽培の実行が示唆されている。三田台などでは大きな溝に囲まれた集落(環濠集落)が営まれていた可能性もあり、田畑や居住地として開発地はより拡大したものと考えられる。
古墳時代以降、時代が降るにつれ、人びとの自然への働きかけは強まっていく。全長が100mを超える芝丸山古墳の築造や赤坂台で発見された10軒を超すと思われる集落の造営の際は、林野を切り拓いたのみならず、少なからず地形の改変を伴ったであろう。
自然と人びととの関わりが著しく変化するのは、江戸時代になり、港区域が巨大城下町・江戸を構成する一地域として大規模開発が開始されたことによる。差し当たり地形に目を向けると、台地上は、多くの土地で関東ローム層まで削平され、北東部に広がる低地や、谷間の大半は埋め立てられ嵩上げされた。埋め立ては海浜部にも及び、汀線に沿って石垣護岸が構築され、自然地形としての海岸線は港区域内の大半で失われた。古川の流路が変えられたのも、江戸時代である。土砂採掘のため、数mも削り取られた斜面地もあり、また武家地、寺社地、町人地を問わず地下利用が進展した。江戸時代は、今につながる都市型自然環境の基盤がつくられた時代であった。
明治時代以降、港区域の都市化はさらに進行し、大正12年(1923)9月1日の関東大震災は、まちの変化に拍車をかけた。もっとも、江戸時代に行われた地形改変に匹敵するような大規模な改変が内陸部で為されることはほとんどなかったとみられる。むしろ地形改変は、埋め立て範囲が拡大した沿岸域で目立つ。その後、陸部では昭和30年代の高度経済成長と昭和39年(1964)のオリンピック東京大会開催に向けてのまちづくりにより港区の北東域を中心として地形改変がすすみ、さらに昭和末期から平成初期にかけての大規模市街地再開発やビル建築により、特に港区北半域で旧来の自然地形が失われていった。
港区内では今日も再開発やビル建築が各所で続けられており、至るところで自然地形は消失しつつある。