港区愛宕1丁目にそびえる愛宕山は、標高が約25.7mあり、「山」が付く自然地形としては23区で最も高いとされる。愛宕山は、武蔵野台地の最も東縁に位置する台地の最北端に当たり、東には東京低地が広がり、北は溜池の谷が、西には溜池の谷に注ぐ支谷(しこく)が形成されている。近年、この愛宕山周辺で、市街地再開発事業やビル建設がすすみ、複数棟の中高層ビルが建ち並んできており、上空や周囲からみえる愛宕山の景観が、あたかも人造の盆地の様相を呈するようになる日も、そう遠くはないかも知れない。
ところで、愛宕山が純然たる自然地形かといえばそうでもない。愛宕山の頂上部には愛宕神社が建立されているが、似たような台地上につくられた西久保八幡神社の例から、頂上部を削平した後に社殿等を建てている可能性が非常に高いことは容易に推測できる。最初の削平は、おそらく愛宕神社が当該地に創建された江戸時代初期に、固いハード・ローム層が現れる深さを目途に行われたであろう。古くからの地形が残存していると考えられそうな神社境内を含めて、江戸時代以降、各所で大規模な地形改変が行われた港区内に、人の手が加えられていない自然地形は、海中を除けばほとんど残っていない。実は先に記した西久保八幡神社の周辺でも、現在、大規模な再開発事業が進行している。
西久保八幡神社は、慶長5年(1600)に、霞ヶ関から虎ノ門5丁目の現在地に移転してきた。神社は東北東に延びる舌状台地の先端に立地し、北側には深い我善坊谷が東西方向に延びており、東は溜池に向かって下る、比較的幅の広い谷が形成され、境内直下にはかつて小さな川が流れていたことを明治期の測量図等から知ることができる。我善坊谷に面する境内北側の斜面には小さな谷が刻まれているが、そこに縄文時代後期の西久保八幡貝塚が形成された。この貝塚を始めとする境内で行われたこれまでの考古学的調査により、貝層は斜面上位で薄く攪乱が顕著となっていることが確認されているが、これは江戸時代に社殿等の建築のため台地頂上付近を削平された結果に他ならない。一方、斜面は、人力による整備や自然の営為による土砂の移動はあるものの、土層の厚薄を除けば、比較的状態の良い自然堆積層が残されている。
また、西久保八幡神社が立地する台地の東側直下には、古代以来の主要幹線道である中原道が通じているとされ、北側の我善坊谷については、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の室を荼毘に付す際に火屋(ひや)(荼毘所)を設けたとする説がある。残存状態の良好な地層、縄文時代から近世に至る歴史的背景を含めて、この地域にとって象徴的な地形といえる。
愛宕山・愛宕神社周辺や西久保八幡神社周辺ですすめられている再開発事業により、こうした地形は大きく改変され、自然堆積の地層はコンクリートで覆われ、生きた地形の歴史を観察する機会はますます失われていくに違いない。